話題の書『安倍晋三 回顧録』の籠池泰典氏に関する記述は、名誉棄損に当たる可能性がある
「100万円の授受」が虚偽であるという安倍氏の発言こそ虚偽ではないのか
郷原信郎 郷原総合コンプライアンス法律事務所 代表弁護士
死者の言葉の公表による名誉毀損や不法行為はあり得る
刑法230条2項において、「死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない」と規定されており、「死者に対する名誉棄損罪」が成立することについては法律上明文がある。また、死者の名誉を鍛損することにより、遺族等の名誉が棄損されたときに、遺族等生存者自身に対する不法行為が成立することにも争いがない。
逆に、「死者による名誉棄損」というのは、死者自身は行為をなし得ないので刑法上の名誉棄損が成立する余地がないのは当然だ。しかし、今回の回顧録のように、「死者の発言」を公にすることによって、他者の名誉を棄損するということはあり得る。その場合は、それを公にする行為が、名誉棄損罪、民事上の不法行為に該当する可能性が生じる。
『安倍晋三 回顧録』は、故人である安倍氏の「(佳茂氏が)私や昭恵との100万円授受を否定している。この話が虚偽だったことは明確」と安倍氏が発言したこと自体については、おそらく間違いはないのであろう。
しかし、そのような故人の発言を回顧録の中で公にすることは泰典氏の「100万円授受話」が虚偽であるとの事実を摘示することは、それ自体が、籠池泰典氏の社会的評価を低下させるものであり、名誉棄損に当たる可能性がある。しかも、回顧録で根拠にしているのは「(佳茂氏が)私や昭恵との100万円授受を否定している」ということであり、実際には、その佳茂氏の発言が存在しないということになると、真実性の根拠もないのに、泰典氏が虚偽証言をしたとの事実を摘示して名誉を棄損したことになる。それは、刑事の名誉棄損罪、民事上の不法行為に該当する可能性がある。
安倍晋三氏の「(佳茂氏が)私や昭恵との100万円授受を否定している。この話が虚偽だったことは明確」との発言を、『安倍晋三回顧録』の中で記載するのであれば、「佳茂氏は100万円授受を否定していないことは、訴訟でも明らかになっているので、この安倍晋三氏の発言は誤解によるものです」との注記を付すことが最低限必要だ。
ところが、同回顧録には、そのような注記は全く記載されていない。それどころか、その直後に「理事長夫妻はその後、国や大阪府などの補助金を騙し取ったとして詐欺などの罪に問われました。もう、私と理事長のどちらに問題があるのかは、明白でしょう。」と、籠池氏が犯罪者であることを強調する安倍氏の発言が書かれており、この発言とも相まって、籠池氏が国会での証人喚問で証言したことを記憶している者にとって、「偽証の犯罪者」であることが強く印象づけられる記述になっている。
私自身、同回顧録の籠池氏に関する安倍氏の発言部分を読んで、当初、「籠池泰典氏は、詐欺罪で実刑が確定しただけでなく、その息子の発言により国会での偽証まで明らかになっているのか」と思ったが、念のために、その「息子の発言」の内容を確認してみたところ、佳茂氏は100万円授受を否定しておらず、安倍氏の発言が虚偽であることが確認できたものだ。
一般の読者は、そのような事実確認はしないので、「籠池氏が100万円授受について虚偽の発言をした」と思い込んでいる人が大半だと思われる。これは、籠池氏が、いくら、詐欺罪で有罪判決を受けた身であっても、到底許せることではないであろう。
もっとも、「籠池氏が100万円授受について虚偽の発言をした」という事実について、安倍晋三氏自身が認識していた、泰典氏の息子の佳茂氏の発言が「100万円授受」を否定する根拠になる、というのは誤解だったとしても、同回顧録の編集責任者の橋本五郎氏らや、出版元の中央公論新社の側が、佳茂氏の発言以外に、「籠池氏の100万円授受について虚偽発言」を疑う十分な根拠を有している、というのであれば話は別である。
監修者に警察官僚出身の北村滋氏の名
この点に関して重要になってくるのが、第2次安倍内閣で内閣情報官を務めた警察官僚出身の北村滋氏が、回顧録の監修者になっていることだ。内閣情報官は、内閣情報調査室の長で、政府の情報収集活動を統括する。2017年3月に籠池氏の国会証人喚問が行われた際も、当時政府として可能な限り籠池氏に関する情報を収集したはずであり、その情報が内閣情報官を務めていた北村氏の下に集められていたはずだ。

北村滋氏
編集責任者の橋本氏や出版者の中央公論新社側は、「内閣情報官だった北村氏が監修してくれているから、籠池氏に関する部分も名誉棄損に当たることはないだろうと思っていた」と弁解するかもしれない。しかし、もし、籠池氏の証言が偽証であることを立証する証拠が安倍官邸側にあったのであれば、籠池氏の偽証告発がおこなわれていたはずだ。しかも、仮に、何らかの証拠があるとしても、籠池氏側から名誉棄損による損害賠償訴訟を受けた場合、北村氏は、内閣情報官時代に収集した証拠を訴訟に提出することができるのだろうか。
『安倍晋三 回顧録』の籠池泰典氏に関する記述は、北村氏が監修者として加わっていることによって、安倍晋三という政治家だけではなく、安倍内閣での情報収集活動そのものをも「歴史の法廷」に立たせることになる可能性がある。
なお、本稿で引用した菅野完氏が籠池佳茂氏及び出版社青林堂に対して提起した名誉棄損損害賠償訴訟の判決文は、菅野氏から入手し、同氏の了解の下に引用している。同氏は、「安倍晋三回顧録の籠池氏に関する記述に問題があることには私も気づいていましたが、私自身は、佳茂氏との訴訟との当事者ですので、その問題について指摘することは差し控えていました」と述べている。