歴史的にロシアとの絆が強いフランス 「外交大国」の意地をかけて大統領が外交攻勢
2023年02月26日
ウクライナ戦争が勃発して2月24日で1年がたつ。欧州では、戦争はいつ終わるのか、その後の世界はどうなるのかが、盛んに議論されている。バイデン大統領がキーウを訪問して「支援続行」を宣言する一方、プーチン大統領が「新START(戦略兵器宣言条約)の停止」を表明。暗に「核兵器の使用の可能性」をちらつかせて、米ソ冷戦時代への逆戻りも指摘される。
「ウクライナの勝利」、すなわち「民主主義陣営の勝利」は、欧州及び米国の一致した願望だ。しかし、その終わり方に関しては相互に相違が見られ、先行きは不透明だ。ゼレンスキー・ウクライナ大統領が提案する「和平計画」は実現するか否か。そもそも「和平会議」は行われるのか否かなど、流動的な点が少なくない。
1年前の2月24日未明、エリゼ宮(仏大統領府兼公邸)で就寝中のマクロン大統領はウクライナからの電話で叩(たた)き起こされた。「エマニュエル、彼らが我々の土地にやってきた。我々の土地で戦闘が行われている」。
ロシアがウクライナへの侵攻を開始した時、ゼレンスキー大統領が真っ先に知らせた相手は、「友人エマニュエル・マクロン」だった。驚愕したマクロンがゼレンスキーの「身の安全」を尋ねたのに対し、ゼレンスキ―は「キーフには安全はない。想像不可能だ」と絶望的な声で答えた。
マクロンは即、キーフのフランス大使館に連絡し、緊急事態発生の時は、ゼレンスキーを大使館で保護するように支持した。この時点で、フランスがウクライナに対して、できることは、これ以外はなかったからだ。
約1年後の今年2月17日に開催されたミュンヘン安全保障会議でマクロンは、「ロシアの敗北を願うが粉砕(écraser)は望まない」と発言し、「ロシア寄り」と参加国の大半とゼレンスキーから批判された。
仏語の「écraser」という単語は、「(象が)踏みつぶす」とか航空機が炎上墜落する時などに使う言葉で、強度な破壊を意味する。マクロンとしては、ウクライナの勝利は望むが、ロシアが復活、再生の余地なく完璧に叩きのめされることには反対を表明したのだ。
マクロンはウクライナ戦争勃発の数カ月後、欧州議会での演説(5月)と複数の仏地方紙インタビュー(6月)で、「ロシアを侮辱するべきではない」と述べ、ゼレンスキ―をカンカンに怒らせた“前科”がある。
この「ロシア(ソ連)を侮辱するべきではない」というフレーズは、実はマクロンの専売特許ではない。ドゴール将軍以下、冷戦時代から第五共和制の代々の仏大統領、サルコジ、オランドなどが、おりに触れて表明してきた、いわばロシアに対するフランスの伝統的な立場と言えなくもない。
フランスが冷戦中からこうした立場を取ってきたのは、「ロシア(ソ連)がまぎれもない欧州大陸に属する欧州の一員、欧州の仲間」との歴史的地理的認識があるからだ。仏主要紙『ルモンド』は、冷戦時代から【モスクワ発】の特派員電は、「欧州」のページに掲載してきた。
帝政ロシア時代の貴族階級が仏語を日常的に使用し、フランスとロシアの文化的な絆が強かったことは、トルストイが『戦争と平和』の平和の部分を仏語で執筆したことや、ロシア革命以後、フランスに亡命したロシア人が多かったことからもうかがえる。
帝政ロシアの正統継承者ウラジーミル大公(92年4月死去)もパリで亡命者として暮らしていた。ソ連消滅後、エリツィン・ロ大統領(当時)がフランスを公式訪問した時には大公もレセプションに招待され、エリツィンと会話を交わしている。
フランスの対ロ姿勢には地政学的な意味もある。フランスは過去約100年間、隣国ドイツとは常に強敵(仇敵ともいえる)として交戦してきたが、そのドイツの向こう側の国、ロシアはフランスにとって、いわば「敵の敵は味方」的な存在でもある。
ミッテラン仏大統領(当時)が、ベルリンの壁が崩壊した時、東西ドイツの統一によって強国ドイツが誕生することを恐れ、慌ててキーフでゴルバチョフ大統領(同)と会談したことは、ミッテランの最大の外交的汚点と指摘されている。コール西独首相(同)と共に、欧州統合の旗振り役を喧伝しながら、内心はドイツを恐れていることがバレてしまったからだ。
フランスの知識階級にも、冷戦時代からソ連(ロシア)の研究家が多い。知の殿堂アカデミー・フランセーズ(仏学士院)の終生書記長(会長職に相当)のエレーヌ・カレール=ダンコース(93)はその代表格だ。
彼女は冷戦真っ最中の1978年(ブレジネフ時代)にソ連の崩壊をいち早く予告、分析した著書『崩壊したソ連帝国』を刊行して以来、ソ連関連の著作を次々に発表。いずれもベストセラーになり、各国で翻訳もされた。父親は独系グルジア人、母親はロシア人という血筋もあり、以後、“マダム・ロシア”と呼ばれ、ソ連(ロシア)の専門家として君臨してきた。同院には他にもアンドレイ・マキーヌ、ドミニク・フェルナンデなど錚々(そうそう)たるロシア通の学者が名を連ねている。
彼らの「ロシア寄り」の発言がこのところ、厳しく断罪されている。カレール=ダンコースはウクライナ戦争勃発の直前まで、フランスの各種メディアとのインタビューで「ロシアはウクライナを攻撃しない」と明言し、「プーチンはそんなバカではない」と断言していたからだ。
『ルモンド』は1月27日付の長文の記事(電子版)で、「ウクライナ戦争に関する分析で今日、(分析などを)間違える危険を犯し、ウラジーミル・プーチンに関し、この数年来、ある種の寛大さを非難される危険がある」と指摘し、彼女を糾弾した。
もっとも、同紙をはじめ、彼女を重用してインタビューを頻繁に実施し、彼女の意見を拡散してきた仏メディアも同罪だと思うのだが……。
フランスとドイツは対ウクライナ戦争で微妙な相違を露呈した。ドイツではマクロンと気脈が通じあった中道右派系のメルケルが去って、左派系の社民党のシュルツが首相に就任したが、「優柔不断」と言われるシュルツの対ウクライナ戦の立場は当初、曖昧だった。マクロンがシュルツを説得してドラジ伊首相(当時)と3人でキーフを訪問(22年6月16日)したのは、ウクライナ戦争での欧州の一致団結を示すためだった。
ところが、シュルツが米国の主力戦車「M1エイブラムス」のウクライナへの供与に次いで、フランスには知らせずに独主力戦車「レオパルト2」の供与を発表したことが、フランスの目には「米国寄り」「欧州軽視」に映った。戦車供与に関しては、マクロンが1月初旬に仏小型戦車「AMS-10」のウクライナへの供与を発表したことが、米国の戦車供与を促しただけに、フランスとしては「シュルツが一言、フランスに挨拶するべきだ」(仏記者)と不満を募らせたというわけだ。
その一方で、フランスとドイツは1月22日、ドゴール将軍と西独のアデナウアー首相(当時)時代の1963年に締結した「仏独協力条約(エリゼ条約)60周年」を盛大に祝って結束の強さを内外に表明している。同条約は過去何度も交戦した仇敵が二度と交戦しないことを誓った条約だ。欧州連合(EU)の道筋を示した欧州連合条約の基盤でもある。
そのEU内では、ポーランドをはじめ東欧諸国が力を伸ばし、EUの旗振り役を任じてきた仏独に対抗してウクライナ問題でも発言力を強めている。ポーランドのモラヴィエツキ首相は“ロシア寄り”のマクロンに対し、「ヒトラーやスターリン、ポルポトと対話できると思っているのか」と指摘し、マクロンを「犯罪者との交渉人」と呼んで、非難した。
ポーランドはNATO加盟国として、NATOの事実上の指揮国である米国の欧州での基地的役割を果たしていることもあり、ウクライナ戦争勃発後は特に米国寄りの姿勢を強めている。また英国はEU離脱前から、欧州よりも同じアングロサクソンでもある「米国寄り」だ。
EUの分裂的状況は、最近の世論調査にも反映している。フランスの調査会社IFOPが欧州各国で実施(1月末~2月上旬)した「ウクライナに関する好感度」の調査では、英国やポーランドでは8割以上が「良い印象」を持つのに対し、フランス、ドイツ、イタリアでは6割だ。この3国も1年前には「良い印象」が8~9割で、戦争の長期化によるウンザリ感が影響したと言えそうだ。
マクロンの一連の“ロシア寄り”の発言に関しては、「戦後を意識したもの」(仏記者)との見方がある。つまり、軍事的には、NATOを事実上率いる米国に指揮権を譲るにしても、戦後の和平会議や復興会議などではフランスが会議を牛耳りたいとの思惑だ。そのためには、ロシアにある程度、「恩を着せておく」必要があるというわけだ。
マクロンは2月19日にはゼレンスキーとの電話会談で、ゼレンスキー提案の「和平計画を支持する」と表明した。また、「次回の外交的機会に国際的シーンでのこのイニシアティブを支持する」とも述べ、国際会議の場などを利用して和平計画の実現への尽力を約束した。
この「和平計画」は、ゼレンスキーが22年9月21日に国連総会でのVTR演説で発表したもので、同年11月15日にインドネシア・バリで開催されたG20首脳会議では詳細な20項目を発表した。
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