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丸腰で紛争地に臨む「国境なき医師団」の終わりなき安全保障術

対話、独立を核に、常に状況を分析し「非武装」を貫く

白川優子 国境なき医師団 手術室看護師

中央アフリカ共和国、イスラム地区にあるママドゥ・ムバイキ保健センター。門には武器持ち込み禁止のサイン©Yann Libessart/MSF
中央アフリカ共和国、首都バンギにあるママドゥ・ムバイキ診療所。門には武器持ち込み禁止のサイン=撮影2014年©Yann Libessart/MSF

いかなるときも武装しない

 どういうわけかこの世界から戦争がなくならない。

 破壊行為でしかないその戦争は、今日も人の命と未来を奪っていく。設立から50年以上経つ国境なき医師団(MSF)は、これまでの歴史のなかでどれほどの紛争地で活動をしてきただろう。銃弾1発で命を落とす危険のなか、私たちは今日も丸腰で現場に立ち続けている。

 紛争地では戦争の暴力によって負傷した人びとに対する緊急外科医療のほかにも、内科、小児科、産科を含めた基礎医療など、無数の人びとが緊急的な医療を必要としている。医療体制が不十分なことも多く、MSFが唯一の機能している医療機関である場合もある。MSFの目的はただひとつ。「一人でも多くの命を救うこと」。私たちに紛争地での活動を避けて通る選択肢はない。

 ただ、私たちがどれほど崇高な理念を持っていたとしても、現場は常に紛争という現実の中にあり、活動を遂行するには、確実な安全対策が必要となる。そのひとつが、武器を持たないことだ。MSFはいかなる時も武装をせず、また病院内への武器の持ち込みを一切禁止している。

MSFのすべての病院の入り口ではガードマンが武器のチェックを行う=イエメンにて2020年10月撮影©MSF/Majd AljunaidMSFのすべての病院の入り口では守衛が武器のチェックを行う=イエメンにて2020年10月撮影©Majd Aljunaid/MSF

すべての人びととの対話で中立性を説明

 武器を持たないMSFが、紛争地でただ闇雲に危険なリスクを受け入れているわけではない。安全対策の要は「対話」である。真に医療が必要な人びとへのアクセスを確保するためには、現地当局からの合法な活動の許可、紛争当事者の理解、住民の受け入れ、どれも欠けてはならない。

 私たちは市民・行政・武装勢力など、現地の「すべての人びと」と対話をしながら私たちの中立の立場を明らかにし、活動の意図を示している。そして、武器を持たないということを、これらすべての人びとに、私たちの活動理念を目に見える形で示すための手段のひとつとしている。

 2021年8月、米軍がアフガニスタン国内から撤退しタリバンが全土を掌握した 。その混乱のさなか、多くの機関が国外撤退をしていったが、MSFは国内にとどまり活動を継続していた。それは、MSFがタリバンとも長年の対話と交渉の実績を持っていたからであり、この時も活動継続の合意が速やかにとれていたからである。

 私自身、この時期に派遣要請を受けアフガニスタンに入国していた。カブール空港内で起きていた混乱が原因ですべての国際商用便がアフガニスタンへの運航を次々にキャンセルし、一見入国の手立てが失われていたかのように見えていたかもしれない。そんななかMSFは自前のチャーター便を使い、タリバンの許可のもと、カンダハール国際空港からの入国を遂げていた。

 これには、出国元空港関係者、保険会社やパイロットを含む多くの関係者からの理解、サポートがあったことは言うまでもない。そしてもちろんMSFはタリバンの他に、米軍、アフガニスタン政府軍などあらゆる関係者と対話し、私たちの活動意図や中立の立場を明確にし、戦闘激化の最中も活動を維持していた。

 私が着任したのは、ヘルマンド州のラシュカルガにある300床ほどの病院だったが、その時まで頑張って活動を繋いでいてくれた前任チームたちとの引継ぎも無事に行うことができた。

筆者が働いたアフガニスタン、ヘルマンド州のラシュカルガにある病院=2022年1月©Oriane Zerah筆者が働いたアフガニスタン、ヘルマンド州のラシュカルガにある病院=2022年1月©Oriane Zerah

中立を超えた「独立」を担保する活動資金

 混沌を極めるアフガニスタンでの活動が継続できていたのは、あらゆる当事者との合意がとれていただけではなく、アフガニスタンでの活動資金のすべてが民間から集めた寄付を使用していたという側面が非常に大きい。これこそが、独立の姿勢を貫くMSFの真骨頂だろう。

 当時のアフガニスタンで驚いたのは、タリバンが復権したことで、今まで機能していた2千あまりの公立病院や診療所が閉鎖に追い込まれる、または機能不全に陥っている現状を目の当たりにしたことだった。当時、日本ではあまり報じられていなかったことだ。

 何が起きていたかというと、タリバンの復権後に、米国、世界銀行、欧州連合(EU)などの主要ドナーが、アフガニスタンへの開発援助を停止する動きを見せた。そのなかには医療費に充てられた数億ドルの援助も含まれており、それを頼りに運営していた医療機関が一気にダメージを受けてしまっていた。タリバンへの制裁としての政治的な世界の動きが、実は医療を必要とする一般市民を一番に締め付けていたのだった。

 しかしMSFだけはその状況下でも国内のすべての医療機関の運営の継続が可能だった。活動資金に独立性があるため、特定の資金源からの影響を受けることないからだ。

 MSFは中立の立場をとるだけではなく、あらゆる国家や勢力から独立しており、したがっていかなる権力や圧力に左右されない組織である。最も医療が必要な場所での活動を自分たち独自の判断で行うための要として、この資金調達の方法に策が凝らされていたのだ。

 政府や国際機関などからの活動資金は、使途制限がありニーズの変化に応じて使い方を変えるのが難しく、また現地でも私たちの中立性についての信頼が得にくくなる。特定の資金源に依存せず、民間の寄付で支えられている資金の独立性は、特に私たちの紛争下や政情不安定な地域での活動を可能にする最大の鍵となっている。

武器携帯が“文化”の男性を説得

 非武装での安全管理は簡単なことではない。地道な努力の積み重ねが、その時々の当事者との関係構築や信頼に繋がっていく。そしてMSFがそのための努力を怠ることはない。特に、病院内への武器の持ち込み禁止を理解してもらうことに難航する場合もある。素性にかかわらず分け隔てなく公平な医療を提供するMSFは、戦争の加担者も受け入れる。その患者が武器を持っていることもある。

 軍や武装グループの上層部とは話がついていても、末端の兵士や戦闘員たちにスムーズに理解を得られるとも限らない。武器を持った相手が子どもであることもあれば、戦争の対立構図が複雑で、対話すべきすべての当事者を把握できないこともある。それでもMSFは武器を持ちこませないという姿勢を崩すことなく、世界のすべてのプロジェクトでその都度、ひとつひとつのケースに向き合って対応している。

 2015年、イエメン北部の山岳地帯でMSFが新しく医療活動を始めようとしていた時の話だ。ここでもやはり、医療活動に着手する前にあらゆる武器の持ち込み禁止の理解を地域住民から得ることから始まった。

 この地域の風習として、成人を迎えたイエメン男性は自動小銃のカラシニコフを肩に掲げるというのが身だしなみだった。武装を意識したものではないからこそ、カラシニコフを外してほしいという申し入れはなかなか受け入れてもらえない。また、たまたまではあるが、当時のチームリーダーや私を含め、私たちのチームには女性が多く、男性社会の中での交渉は難を極めた。

 ただ最後には、空爆によって崩壊した医療施設の再建と機能改善の部分への同意にはお互いが揺らぐことがなかったため、時間はかかったものの病院内のカラシニコフ携帯の解除には地域住民全員の同意を得ることができた。

イエメン北部。空爆で崩壊した医療機関の前に立つ筆者=2015年©MSF
イエメン北部。空爆で崩壊した医療機関の前に立つ筆者=2015年©MSF
イエメン北部。空爆で崩壊した医療機関=2015年©Yuko Shirakawa/MSFイエメン北部。空爆で崩壊した医療機関=2015年©Yuko Shirakawa/MSF

治療中の患者を追って軍が病院を包囲

 いくらMSFが中立の立場をとろうとも、紛争地においてはどうしようもない現実に遭遇することもある。受け入れた患者の素性をめぐって、他方の紛争当事者からの報復の恐れもあれば、無差別に紛争に巻き込まれることや、また意図的に医療自体が攻撃の対象となることもある。

 2012年、イエメン南部にあるMSFの外傷病院でのできごとである。スリランカ、パキスタンと続く3回目の派遣で、私にとっては初めての紛争地での活動だった。連日手術室に運び込まれてくる患者さんの大半が銃撃か、空爆などの爆撃に巻き込まれ負傷していた。病院内からも銃撃戦の音は聞こえ空爆の振動が伝わってきていた。

 ある日、いつものように手術室で活動をしている最中にチームリーダーから携帯に連絡が入った。「指示があるまで手術室から1歩も出ないように。全員に伝えて欲しい」静かにそれだけ伝えられた。

 その時は2名の患者を緊急で受け入れていたため、誰も手術室から出られるような状況でもなかったが、10人あまりいたチーム全員にその指示を伝えた。この時、病院の外で何が起きていたのかを後に知った。

 私たち外科チームが手術室で対応をしていた2名の患者を追って、政府軍が病院に押し寄せていたとのことだった。軍にテロ行為を仕掛け、追われながら撃たれてこの病院にたどり着いた、というのが事の顛末らしく、軍の要求はこの2人の身柄の引き渡しだった。

 チームリーダーを始めセキュリティ管理を担当するロジスティシャン達が、医の倫理と人道援助の名の下、それらの要求を取り下げてくれるよう、武装した軍の兵士たちを相手に長時間に渡る対話を続け、何とか軍に引き下がってもらう結果を導き出した。隣のビルの屋上にも軍のスナイパーが配置されていたというから、病院を守るためのプレッシャーは大きかったに違いないが、紛争地においてこのようなできごとは決して想定外ではない。

イエメン南部のアデン。MSFの外傷病院で戦傷患者に連日対応した=2012年©MSFイエメン南部のアデン。MSFの外傷病院で戦傷患者に連日対応した=2012年©MSF
イエメン南部のアデン。外傷病院で戦傷患者に連日対応するMSFのスタッフ=2012年©Yuko Shirakawa/MSFイエメン南部のアデン。外傷病院で戦傷患者に連日対応するMSFのスタッフ。右手前は筆者=2012年©MSF

武装警護をつけた過去も一度だけある

 とはいえ、安全管理の限界から例外的にMSFが武装警護を導入したことが実はある。2013年のソマリアでの活動においての話だ。これにはMSF内部全体で大きな議論を呼び起こした。

 相次ぐ襲撃、拉致、殺害、脅迫、窃盗、その他の威嚇行為等があり、さらに各勢力、当事者との対話や交渉も機能しない、非常に危険な活動国、それが当時のソマリアだった。貧しい医療体制のなか、特に妊産婦死亡率と乳幼児死亡率は世界最高水準に達し、また数十万人の市民が難民キャンプで先行き不透明な暮らしを強いられ、医療ニーズが非常に高い国のひとつでもあった。

 MSFの武装は、各オペレーションセンターや、各事務局、各理事会、各人ごとに意見が分かれ、「敵味方関係なく医療を提供するMSFが人を撃つのか」「それでも救うべき命が有るのに何もしないのか」という様々な激しい意見が飛び交い、私もシリアから帰国してきたばかりの日本で、この議論に参加した記憶は鮮明だ。

 MSFの活動に参加して間もなかった私は、世界のMSFスタッフを巻き込むこのムーブメントに圧倒されたが、MSFの存在意義の根幹について、ひとりひとりが妥協のない意見を言い合えるシステムを備えた組織であることに対し、興奮も覚えた。

 結果として、MSFは22年間継続して行っていたすべてのプログラムを中止しソマリアから撤退した。あとにも先にもMSFが武装警護をつけたのはこの時のみであるが、武装という解決策をとったという現実と、救うべきだった命を置き去りにしなくてはいけなかったジレンマが残った。

それでも武装は誤解を招きリスクを高める

 果たしてソマリアでの武装はMSFの悔やまれる歴史となってしまったのか、それとも現地の人びとの命を救うためには仕方がなかったことなのか。正解のない問いではあるが、MSFはやはり武装するべきではないだろう。

 警護とはいえども、攻撃能力を保持する以上は、人道援助の意図や目的が真に伝わりにくくなってしまううえ、あらゆる勢力が複雑に入り込んでいるような紛争地では誤解を招きやすく、攻撃されるリスクの発生は避けられなくなるに違いない。だからこそ、武器を持たずしていかに安全に活動できる道を考え、実証していかなくてはいけない。

 戦争が存在し続けるこの世界で、紛争地での活動におけるリスクとどう向き合えばよいのか、MSFは過去の経験、教訓から学び続けている。世界で約70の国や地域にある活動地は、決して紛争のみが背景というわけではないが、それでも450余りある全現場では常に危険リスクのレベルをアセスメントし、対話や交渉、関係構築を行い、時にはリスク軽減のためにチームの人数を減らし、時に撤退という決断も行いながら安全を優先した日々の行動を決めている。

 そもそも医療活動が命がけであってはならない。武装警護をつけないと人道援助が成立しないような現実こそが、常軌を逸しているのだ。

 武力による問題解決は武力衝突の連鎖しか生み出さないことは明らかで、これは世界中の誰もがわかっているはずであるが、実際にはこの世界には武器が蔓延し、戦争やテロは常にどこかで起きている。

 そしてMSFは、必要とされている医療を人びとに安全に届けられるよう今日も丸腰で世界各地で活動を続けている。