「論座」終了にあたり日本政治の望ましき展開を妨げている事由を論ず【1】
2023年04月07日
「論座」が幕を閉じるにあたり、私は一読者として、また一執筆者として、あらためて本欄が果たしてきた貴重な役割に敬意を表したい。
論座で私は、これまでに80本の論考を執筆してきた。今回から3回、論座への寄稿の結びとして、この時代の日本政治の望ましい展開を妨げている三つの事由を指摘したうえで、自らの見解を明らかにしておきたいと思う。
三つ事由とは、(1)衆議院に導入された現行小選挙区制、(2)“本筋”の行政改革から逸(そ)れた省庁再編、(3)思想潮流の低迷と構想力の欠如――である。いずれも私自身が、かつて政治の現場で深く関与し、その意味で格別の責任を負うべき問題だ。
「平成の二大改革」とも言うべき、小選挙区制の導入を柱とする政治改革と、省庁再編に象徴される行政改革は、この時代の日本にとって有効な効果をもたらさなかったどころか、逆に日本の全面的な劣化現象を惹起した「制度要因」として、厳しく検証するべき段階を迎えている。
なぜ、改革は失敗したのか。その原因を端的に言うと、「改革の矮小(わいしょう)化」、あるいは「改革目的のすり替え」ということになる。要するに、政治や行政が本筋の改革から逃げて改革を偽装したからである。
今回は(1)衆議院に導入された現行小選挙区制、について論じることにしよう。
「選挙制度改革の残像」。これは本年に入って共同通信社が地方紙に配信している大型連載企画のタイトルである。新聞のほぼ1ページ全体を占める大企画となっている。
そのリードにはこう書いてある。
――1994年1月28日深夜。政治改革で最大の焦点だった衆院の選挙制度改革は、300小選挙区と比例代表11ブロックを並立させる案で決着した。この歴史的な合意を分水嶺として、日本の政治は大きく変転し、劣化とも指摘される今の状態につながっていく。あの選挙制度改革は何だったのか。当事者が振り返り、教訓と未来への指針を1年にわたり語る。
細川護熙首相(当時)、河野洋平自民党総裁(同)、武村正義新党さきがけ代表(同)、小沢一郎新生党幹事長(同)など数多くの関係者がいるなかで初回を任されたことには驚いたが、日本有数の報道機関が本気でこの問題に取り組み始めたことにはさらに驚いた。
この連載は本年中に終わる予定だが、年が明けて翌1月になると、細川首相と河野総裁のトップ会談による“歴史的合意”から30年を迎える。一体、現行制度をこのまま放置していいのか。将来世代に責任を持てるのか。そう警鐘を鳴らす絶好の年なのだろう。
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リクルート事件など一連の構造汚職が発覚して窮地に立った1980年代の自民党は、国民世論から厳しく改革を迫られた。
ここで本筋となるべき改革は、贈収賄罪の刑罰強化、政治活動でのサービス規制(慶弔電報の禁止など)、そして、政治資金の規制の強化のはずだった。
ところが、政治改革の議論が始まると、「政治にカネがかかるのは、同じ政党の候補がサービス競争をするから」という“理屈”が前面に出るようになり、「(一つの選挙区でおおむね3~5人が当選する)中選挙区制という選挙制度に問題がある」という声が強まった。
小選挙区制の導入論は次第に勢いを強め、「汚職は政治家や政党の責任というより中選挙区制の問題」として、ついに「熱病」(船田元・衆院議員)とも言える状況を呈した。当時、私をはじめ「中選挙区連記制」の採用と贈収賄罪の刑罰強化を主張した人も少なくなかったが、小選挙区導入論は「二大政党論」の大義も得て、学界、財界、メディアを巻き込んで一大勢力になったのである。
そもそも私は、「二大政党制」は当時の日本にはなじまないと主張していた。二大政党は、英国などのように元々ふたつの思想潮流、政治潮流があってこそ成り立つもので、制度が二つの政治潮流をつくるのではない。制度によって無理やり二大政党をつくっても、古い羊羹(ようかん)を二つに分けるようなもので、そこから新しい政治は生まれない。
また、財源や許認可権などの地方委譲が進まず、地方分権が中途半端な段階で小選挙区制を導入すれば、選出された議員は予算や利権の単なる“運び屋”に堕する恐れがある。そして、このことが官僚の立場を格段に強めることになる。
さらに、政治の世襲化は一段と強まり、小選挙区から党や団体に借りがない“草莽の志士”が登場することを、ほとんど不可能にするだろう。そう私は危惧した。
さて、現行小選挙区における自民党候補の強さは群を抜く。選挙事務所には壁いっぱいに支援団体の推薦状が貼られるが、私の目で見て格別に強い支援団体は六つある。
すでに論座への寄稿でも指摘したと思うが、それは①農業団体、②商工団体、③建設関連団体、④遺族会、⑤特定郵便局、⑥三師会(医師、歯科医師、薬剤師)――である。中選挙区制のもとではこれらが複数の自民党候補に分散するが、現行小選挙区制では一人の自民党候補に結集する。これらの団体は独自の予算要求、政策要求を持つから、野党には背を向ける。
とすれば、大都市ならいざしらず、平均的な地方選挙区では、どんな優れた人物であっても、自民党候補の後塵を拝するだろう。こうした自民党候補に勝てるのは、他党の幹部として官僚や業界ににらみをきかせることのできるひと握りの人に限られよう。
こうした自民党の岩盤基盤にさらに追加されるのが小選挙区の公明党票だ。選挙区によって異なるものの、私は平均して3万票前後と推定している。
公明党票は、単なる票ではなく、熟練した選挙運動の機動力でもある。こうして新人候補であっても、自民党から公認されるだけで、当選可能性は一気に高くなる。
さらに世襲議員の場合、ここに親から相続する票が加わって、文字通り盤石になる。この世襲票には個人差が大きいと思うが、少なくとも4万票はくだらないと推定できる。もちろん、前述の団体票と重なる部分もある。
世襲議員には「党の公募に応じて選ばれた」と抗弁する人も少なくない。ただ、公認するかどうかの決定は「当選可能性」が優先基準となるので、公募への応募は単なる手続きということになる。
そうだとすれば、世襲が増えれば増えるほど、選挙は無意味で形式的な様相を深めることになる。そして現実には、すでに多くの選挙区が“幕藩体制”と化しつつあるようだ。
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今からちょうど30年前の1993年、細川首相が衆議院に提出した政治改革法案は、小選挙区250・全国比例250の並立制であった。そして、これはわれわれ中選挙区連記制論者からすると、納得できるギリギリの妥協であった。
この法案について、細川首相とわれわれ関係者は「二大政党」を目指すとは言わず、「穏健な多党制」を目指すとして国会審議に臨んだ。なかでも全国比例を小選挙区と同数にしたのは、貴重な主張(たとえば原発廃止など)をする少数政党を尊重する意図を秘めていた。くわえて、職業政治家が通用しない非常の時代に臨んで、“草莽の志士”に登場舞台を提供する狙いもあった。
実は最初の政府案の原案になったのは、細川・日本新党代表と武村正義・新党さきがけ代表と私の3人で作成し、具体的な数字まで盛り込んだ「政治改革政権の提唱」であった。この提唱をもとに、非自民連立の細川政権は誕生したのである。
自民党の抵抗を受けながらも、衆議院はなんとか通過したこの政治改革法案は、参議院に送られてから、社会党などの反対で暗礁に乗り上げ、成立することなく越年。細川首相は年が明けた直後、私を呼んで内閣総辞職の意向を示した。この事実は数年後に、細川氏の口からも明らかにされたが、彼も総辞職か解散の道を選ぶべきだったと思ったのだろう。
私自身が動きを知らない半月ほどを経て、前述した1994年1月28日のトップ会談が突然おこなわれ、自民党との間にあっという間に合意が成立。間を置かず、ほとんど審議することもなく、電光石火、国会で成立したのが現行の選挙制度である。
実はこの合意案は、「ブロック比例」「重複立候補」など、ほとんどが自民党案の丸呑みであった。総理室のテレビでこの合意を知った瞬間、今まで経験したことのない強い寒気が全身を走ったのを覚えている。
あれから30年がたつが、この歴史的一幕の子細は、いまだに解明されていない。そして、この一幕の当事者である細川氏も河野氏も近年、この合意が間違いであったと公言している。熱心な小選挙区論者であった故武村氏も同じであった。
今こそ、この30年の政治を徹底検証し、日本の本格的な再生に心を砕きたいものだ。このままでは、新しい時代をひらく有為の人材が政治の前面に立つことが至難の業である。
政治改革の当初案であった小選挙区250、全国比例250の並立制に戻るか、それとも中選挙区連記制を採用するか。平成から令和へと30年の経験を経て、国民的運動を始める時機を迎えているのではないか。
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