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第2の被爆地ナガサキが警告するもの~米大統領はなぜ長崎を訪問しないのか

終戦の直前に投下目標に浮上、神に親しい人々の住む真上に落ちた原爆

高瀨毅 ノンフィクション作家・ジャーナリスト

 バイデンは来ないのか――。

 4月6日、「米大統領の長崎訪問の案は見送りに」というニュースが伝えられると、地元長崎の被爆者や市民の間から落胆の声が漏れた。

米大統領訪問に高まった期待

 G7(先進7カ国)サミットが、5月19日から21日まで被爆地・広島で開催される。それに合わせ、米国のバイデン大統領が、もう一つの被爆地、「長崎市への訪問を日米両政府が検討に入った」と読売新聞が報じたのが2022年12月20日。

 実現すれば、現職の米大統領の長崎訪問は初めて。2016年5月に、オバマ元大統領が米国現職大統領として初めて広島を訪問したが、この時も長崎には行かなかった。

それだけに、「長崎訪問を検討」というニュースに、地元では期待が膨らんだ。バイデン大統領は熱心なカトリック教徒として知られ、爆心地に近い浦上教会(浦上天主堂)を訪問する案も考えられていたという。

 見送りの理由は、サミット直後に豪で開かれるクアッド(日米豪印)の首脳会合に赴くため、時間的に難しいというもの。

ホワイトハウスで開かれた式典で演説するバイデン米大統領=2023年1月20日、ワシントン、ランハム裕子撮影

「重要なタイミング。非常に残念」

 大石賢吾・長崎県知事、松井一實・広島市長とともに、在日米国大使館に大統領の長崎訪問を要請していた田上富久・長崎市長は、「ウクライナ情勢が起きている中で、長崎という被爆地で『ここを最後の被爆地に』というメッセージを発する意味ではとても重要なタイミング。非常に残念」と語った。

 それは被爆者にとっても同じだ。第2の被爆地に来てもらい、被爆者から直接話を聞き、核兵器の残虐性を感じ取ってほしい。そして、核廃絶、核軍縮に向けてメッセージを発してほしい。被爆者の誰もがそう願っているからだ。

被爆者に沈潜する許しがたいという怒り

 一方で、被爆者の胸の内には、原爆投下に対して絶対に許しがたいという怒りが沈潜している。

 「(原爆投下は)戦争犯罪ですから、いくら戦勝国でも認めるべきことです」。そう語るのは、長崎の被爆者4団体の一つ、長崎原爆被災者協議会の田中重光会長(82)。田中会長は、バイデン大統領の長崎訪問検討という昨年末の報道を受けて、「今も多くの被爆者が苦しんでおり、謝罪してほしい」とコメント。翌日の長崎新聞が伝えていた。こうした声は、田中会長だけでなく、被爆者の間には少なからずある。

 長崎の核問題研究者の一人は、謝罪を望む声について、「謝罪しないのであれば、歓迎できないというメッセージでしょう」と言う。そして謝罪要求の裏には、「オバマ大統領が『口だけ』で終わってしまったことに対する落胆や懐疑があると思う」と語る。

 米国は、大統領の時間が取れないという理由で、長崎訪問を取りやめたことになっているが、別の研究者は、「大統領選を控えてもわざわざ米国に文句を言いたい人が待っている所へいくような真似はしない」と見ていたという。

 22年12月にバイデン大統領の訪問検討を報道した読売新聞の記事でも、長崎市民の感情について触れていた。見出しは「『核なき世界』世界発信へ住民感情見極め」。本文にも、「日米両政府は今後、長崎と米国の双方の世論に配慮しながら、詰めの調整を急ぐ方針だ」と記述されていた。

 住民感情とはいったい何のことか。世論に配慮とは何を意味しているのか。記事ではそれ以上の事はわからなかったが、米国が被爆地の声にナーバスになっていることは読み取れた。

長崎に投下された原爆で生じたキノコ雲 Everett Collection/shutterstock.com

なぜ2発も原爆を投下したのか

 長崎市の「原爆被害者動態調査事業報告書」(2009年)によると、被爆者総数は 24万4908 人。うち被爆当時10歳代が27%で最多。次に多いのが10歳未満(胎児除く)で20%。つまり0歳児から19歳までで被爆者全体の47%を占める。

 どの年齢層においても直接被爆の割合が最も多いが、10 歳未満、50 歳以上ではそれぞれ 80%以上を占める。原爆は子供、女性、高齢層に被害をもたらしていたことが分る。原爆は空からの「虐殺」なのだ。

 米国はなぜ、2発も原爆を投下したのか。広島だけでも、十分に破壊力を日本に見せつけ、戦意を喪失させるはずものであったはずなのに、わずか3日後に再び都市住民の上に落した。「ヒロシマ・ナガサキ」という言い方を当たり前のこととして見ていること自体、疑ってみる必要がある。

被爆間もない時期に米軍が撮影した長崎のまち。中央は崩壊した浦上天主堂(浦上キリシタン資料館提供)

純粋に政治的な決定

 原爆投下計画はどう見られていたのか。軍人たちは当初戸惑いを見せていたことが、米国の研究者によって明らかになっている。

 米国の原爆対日使用問題専門の歴史学者、ガー・アルペロヴィッツは、30年以上に渡り資料を渉猟、調査、発掘、研究してきた。その集大成である『原爆投下決断の内幕---悲劇のヒロシマ・ナガサキ (上、下)』に、見逃せない記述がある。

 原爆投下の45年8月、当時駐ソ連大使だったアベレル・ハリマンが、米陸軍戦略航空隊司令官(のちに米空軍参謀長)のカール・スパーツ将軍と、スパーツの下で副司令官を務めていたフレデリック・K・アンダーソンと夕食を共にした時のこと。

 「2人とも原爆を投下せずとも日本は降伏すると感じていた。それに、2発目の原爆がなぜ投下されたのか、その理由が2人にはわからなかった」(ハリマン)

 スパーツは、原爆を広島、長崎に投下したB29の特殊部隊「第509混成グループ」の司令官。原爆投下命令書を米ワシントンからグアム島へと運んだ人物だ。彼はワシントンで初めて原爆について聞かされたとき、「私は賛成ではなかった。住民を皆殺しにするような都市の破壊は1度だって支持したことはない」

 しかし、結果的に原爆は2都市に投下された。スパーツはそれについて1965年、インタビューに答えている。

 「あれは純粋に政治的な決定であって、軍の決定ではなかった。軍人は政治的上司の命令を忠実に実行するものである」

 言い訳に聞こえなくもないが、実際、戦況を知る軍人たちは、原爆を落とさずとも、日本を降伏させられると見ていた。

原爆完成までの時間を稼ぎたかった米国

 東京大空襲を始め、一般市民の家屋が密集する全国の都市にナパーム弾(焼夷弾)の雨を降らせ、50万人から100万人を殺戮した米陸軍少将(のちに大将)カーチス・ルメイは、1945年4月15日のAP通信配信の記事で、「空襲だけで日本の産業基盤を破壊することは可能だ」と語っていた。別のインタビューでは、同時期、ルメイを訪ねたアーノルド将軍から「この戦争はいつ終わるのか」と聞かれ、「9月のうちには攻撃目標がなくなってしまうことはあまりに明白で、10月には鉄道や他のそのようなものを除くと、めぼしい目標は本当に残っていない」と答えている。もはや日本には爆撃目標がないと言っているのだ。

 また戦後、GHQ(連合軍総司令部)の総司令官として日本の占領政策を遂行したダグラス・マッカーサーが、「原爆投下を軍事的にはまったく正当化できないと考えていた」と、米のジャーナリスト、作家のノーマン・カズンズは『権力の病理学』の中で書いている。マッカーサーによると、「アメリカが後にそうしたように、天皇制の維持に同意していれば、戦争は何週間も前に終わっていたかもしれなかった」

 これは、米国が戦争末期、日本に対して、日本側が到底飲めない無条件降伏を突き付けていたことを意味していた。原爆が完成するまでの時間を稼ぎたかったからである。仕切ったのがジェームズ・F・バーンズ国務長官。フランクリン・ルーズベルト大統領の急逝によって45年4月に副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に就任。しかし、トルーマンは原爆製造計画は知らされていなかった。民主党の先輩にあたるバーンズは、トルーマンを実質後ろで動かした。

 ここから見えてくるのは、軍事のプロには、45年春の段階で、原爆を使わなくとも戦争の帰趨はわかっていたということ。だが、米政権中枢は、原爆完成まで戦争を引き延ばし、それを実戦に使用したいという思惑があったことである。この狙いについて、アルベロビッツは、戦後ソ連の台頭をにらみ、原爆を対ソ外交の切り札にしたかったと分析している。

2種類の原爆を開発

 では、なぜ2都市だったのか。それは2種類の原爆を開発していたからだ。

 一つはウラニウムを原料とする爆弾。核分裂するウラン235は0.7%しか含まれておらず、これを取り出すために巨大な遠心分離機の設備が必要だった。もう一つはプルトニウムが原料の爆弾。原子炉を稼働させれば、使用済み核燃料から取り出せる。つまり、量産化がしやすい。ただプルトニウム原爆は、爆発させる仕組みが複雑で、比較的容易に起爆できるウラン型より起爆は難しかった。

 米ニューメキシコ州アラモゴードでの人類初の核実験「トリニティ」はプルトニウ爆弾だった。実験に成功したのが、45年7月16日。その日、ポツダムで会談中だったトルーマンに「赤ん坊が生まれた」との報告があった。量産化が容易な爆弾の爆発実験に成功したのだ。それがもたらす価値は大きかった。核兵器を大量に所有し、世界の覇権を握る力を手にしたことを意味していたからだ。

 残された課題はただ一つ。実戦で使用できるか否かだ。最終的には長崎に落され、多大な犠牲者が出たのだが、そもそも長崎は、原爆を投下するに「ふさわしい」都市だったのだろうか。

条件のいい都市ではなかった

 断っておくが、「ふさわしい」という言い方は、原爆犠牲者や地獄を見た人達からみれば冒涜(ぼうとく)的ですらあるかもしれない。しかし、投下する側からみれば、極めて重要な要素となる。破壊力を日本はもとより、世界に見せつける必要があったからだ。

 まず都市の地形が大きな条件となる。長崎は、南側に港をもち、山と丘陵に囲まれ、平地が南北と東側に細長く伸びた街である。直径約5キロの同心円が描けるもう一つの被爆地広島とは地形的には全く違う。8月9日の第1目標であった福岡県・小倉の方が、広島と似た広さと形状をもつ都市だった。長崎は、決して条件のいい都市ではなかった。

 米国の原爆投下目標都市選定委員会でも、投下わずか15日前の7月25日まで、目標都市のリストに入っていなかった。それまでリストにあったのは「京都、広島、新潟。小倉」の4都市。これらの都市は、「原爆使用にふさわしい人口」を持ち、通常爆撃を受けていない“無傷”の都市。原爆による破壊力を測りやすかった。

 しかし、これらの都市も絶対的に固定化されていたのではなく、直前まで二転三転する。京都と新潟が消え、代わりに長崎が浮上。広島、小倉、長崎の3都市に最終的に絞り込まれる。

 京都は、戦後占領政策を考えた時、1000年の古都を破壊するデメリットを考えたスティムソン陸軍長官がリストから除いたことはあまりにも有名だ。新潟は、港湾設備などがあまり大きくないという理由だが、マリアナ諸島テニアン島から爆撃に来るには、唯一距離が遠く、敬遠された可能性がある。

投下候補に急浮上した

 そんな中、長崎が浮上したのは、プルトニウム利用の原爆の第1目標だった小倉に近く、小倉が仮に何らかの理由で落とせなかった場合にも、帰路のコース上に含まれるという事が大きかったと思われる。

 むろん、どこでもよい訳ではない。長崎市には三菱の軍需工場も多く、人口も当時九州では有数の24万人余り。地形を除けば、条件は満たしていた。ただ、絶対的に長崎でなければならないという理由は見つかっていない。

 それどころか、目標都市には、通常爆撃をしてはならない命令が出されるにもかかわらず、原爆投下の10日から1週間前にかけ3度も通常爆撃があり、数百人の犠牲者がでた。この爆撃の理由は不明である。

 目標都市となる7月25日以前は、通常爆撃禁止の命令対象都市ではないので、通常爆撃があってもおかしくなかったが、明確な目標として狙われたことはない。いわば“無傷”に等しい都市として生き残っていた。その理由もいまだよくわからない(この件についての詳細は論座「原爆投下の前になぜ、長崎は空襲されたのか?」に執筆)。

 日本中の大都市だけでなく、中小都市爆撃も指揮したカーチス・ルメイが、「もう爆撃するところはない」とまで言うような状況下、なぜか長崎だけは奇跡的に残されていたのである。この「奇妙さ」は、のちに原爆が、250年もの弾圧に耐えた潜伏キリシタンの町、浦上上空で炸裂したことと併せ、不思議な物語性を感じさせずにはおかない。

被爆前の浦上天主堂(浦上キリシタン資料館館長・岩波智代子氏提供)

ポンプに不具合かかえ“見切り発車”

 原爆投下当日の8月9日も、テニアンを出発する時からおかしかった。かいつまんで説明しよう。

 投下は3機編隊で行う。原爆搭載機、爆発の威力を図る機器を積んだ機、映像を記録する当搭乗員を乗せた機だ。

 原爆搭載機がエンジンを始動させようとした時、予備燃料タンクのポンプに不具合が見つかる。予備燃料4000リットルのうち2000リットルが使えない状態だった。重大な使命を担うフライトなら、万全な状態で離陸しなければならないはずだが、“見切り発車”する。なぜ修理もせずに9日に飛んだのか。

 一つは、数日の間に日本の天候が悪くなると見られていたという話がある。修理していたら翌日に持ち越される可能性が考えられた。そうなると大幅に計画が狂う。

ソ連参戦を「上書き」する必要

 日程と関係して重要なことがあった。9日未明にソ連が日ソ中立条約を破り、満州へと侵攻したことだ。その裏には、45年2月に行われた米英ソ3か国首脳によるヤルタ会談で、ドイツ降伏の3カ月後をメドに、ソ連が侵攻する「密約」があった。ドイツ降伏は5月8日。8月9日はそれからちょうど3カ月後。日付が変わったと同時に、密約通りソ連は満州へと攻め入ったのだ。

 当時、日本は、和平の仲介をソ連に働きかけていた。そのソ連が中立条約を破って満州に侵攻したことは、日本には大きな衝撃だった。6日、広島に原爆が投下された後、天皇は降伏の時が来たと判断。だが、陸軍幹部は原爆の威力を信じない。9日、会議。その最中、ソ連の宣戦布告の報が届く。数時間後、日本の首脳は降伏を討議する席に着いた。

 そこに長崎に原爆が投下されたとの一報が入る。ただ、長崎原爆について会議で討議された形跡はない。政府、軍部にとってはソ連参戦が最大の関心事だった。

 このままでは、日本はソ連参戦によって降伏することになる。米国からみれば、戦後世界の覇権を握る上で好ましくはない。日本側がどうであろうと、2発目の原爆投下によって、外見上、ソ連参戦を「上書き」する必要があったはずだ。それも、できるだけソ連参戦から日を置かない時期に。

小倉投下を諦め第二の目標へ 

 刻々と変わりはじめた政治状況。テニアンでは現場搭載機のトラブルが発生していた。故障を抱えたまま、飛び立つ原爆搭載機。問題はそれだけではなかった。撮影担当機の搭乗員の一人が義務づけられているパラシュートを忘れ、滑走路の片隅で降ろされたのだ。これによって、1機だけ離陸が遅れた。

 別々に飛び立ったB9は、広島の時の合流ポイントだった硫黄島上空が天候不良のため、鹿児島県屋久島上空に変更。ここは2000メートル級の山があるため、高度1万メートルで待ち合わせる。ただ、高度があるほど燃料消費は増える。原爆搭載機は2000リットルの使えない燃料も抱えていて燃費はさらに悪い。依然として撮影機が来ない。35分経過。仕方なく2機で第1目標の小倉へと向かう。

 大分県・国東半島の北にある姫島を攻撃始点として西北西へと爆撃航程に入った搭載機。ところが、小倉上空は雲と前日の八幡空襲による噴煙の残りが混じり視界が悪い。最近では八幡製鉄工場内で燃やしたコールタールによる噴煙なども流れこんでいた可能性も指摘されている。

 計算通りに原爆を落とせないまま、小倉上空からいったん離脱、2度目の侵入を試みる。ここからは原爆搭載機の機長チャールズ・スウィニーの記録だが、対空砲火が始まる。迎撃機も10機ほど上昇してきた。3度目の侵入。対空放火は激しくなる。時間が過ぎていく。もはやテニアンに帰島する燃料はなく、沖縄の読谷飛行場に着陸することを念頭に第2目標の長崎へ。

秒単位の判断に迫られて

 遅れに遅れた原爆搭載機と僚機(計測機器搭載)は、撮影担当の僚機と結局一度も合流できないまま2機で熊本方面へ南下。そこから西進、島原半島を横切り、千々石湾から長崎市上空へと向かった。しかし午前中の早い時間帯には快晴だった長崎上空は、片積雲が点々と覆い始めていた。

 原爆投下はレーダーではなく、目視による投下命令がでているため、雲の切れ目から目標の長崎市の繁華街付近の川と橋を視認しなければならない。高度9600メートル。目標が見えない。攻撃始点から照準点(目標)まで同高度、同速度、一直線という爆撃航程を何度も繰り返す余裕はない。チャンスは一度きり。レーダー投下に切り替えるか。おそらく機内では迫りくる長崎市へ向けて秒単位の判断が迫られていたことは容易に想像できる。

 落とせないまま原爆を抱えて帰るわけにはいかない。仕方がない。命令違反をしてでもレーダー投下に切り替えよう……。そう判断しかかった時、おそらく当初目標より北の軍需工場地帯が見えたと想像される。ただ、そのエリアの北東側は、多くの潜伏キリシタンの末裔(まつえい)が住む、日本のカトリックの聖地だった。

浦上にあるキリシタン墓地。同様の墓地が爆心地周辺にいくつも点在する

「神と原爆」の土地、爆心地・浦上

 長崎市の浦上地区には、キリシタン墓地がいくつも点在する。赤城、こうらんば、経の峰、白山、阿蘇……。墓石の上に十字架があしらわれた墓や、白いマリア像が斜面に並ぶ。墓石の裏には、ヨゼフ、ミカエル、フランシスコ、マリヤ、セシリア、ペトロなどの洗礼名とともに、死亡した日が刻まれている。昭和20年8月9日、10日、12日、14日……。

 キリスト教の信仰が禁じられていた江戸時代、司祭の助力なしに教義、儀式の維持と伝承につとめる互助組織が組織された。教会歴を管理し、信仰の原型を250年間もの弾圧下で守り通した信徒たちの紐帯は、驚嘆すべき堅固さを持っていた。

 16世紀、大航海時代のポルトガル船がもたらした「異教」は、浦上の地で最も純化し、根付いたと言っていいのかもれしない。

 自由な信仰の光が再び差し込んだのは明治時代に入ってから。それから82年後の1945年夏、その地に原爆が投下された。再びの厄災。敬虔で忍耐強いキリスト者たちの上に、なにゆえ神は度重なる試練を与えるのか。それを旧約聖書の「ヨブ記」が2000年の時を超えて再現したのだと視る者もいる。「神と原爆」の土地、それが爆心地・浦上なのだ。

長崎原発が問いかける深遠なテーマ

 長崎原爆を、投下目標都市の選定から投下まで時系列に細かく追っていくと、いくつもの偶然と不運が絡み合い、浦上の空へと収斂(しゅうれん)していったように見える。それは未来への警告なのか、未来からの「預言」なのか。

 今回も、米大統領は長崎に来ない。おそらく、日本の多くの人たちもそのことをあまり深くは考えないだろう。しかし、広島とはタイプの違う量産型の原爆を、実戦使用に成功させたことは、米ソ冷戦から今日へと続く核時代の扉を開き、世界的危機を招いたことにつながっている。

 それは、長崎から始まっている。戦争が終わる直前になって投下目標として浮上し、神に最も近しい人々の住む頭上に原爆が「落ちた」。原爆投下のプロセスを知るほど、その啓示的物語について考えこまざるを得ない。

 長崎は広島に次ぐ第2の被爆地というだけの土地なのか。直列的に考えればそうなるが、広島と並列にして見た時、長崎原爆が投げかけるテーマは深遠だ。
長崎が「最後の被爆地」としての役割を果たすには、長崎原爆が持つ偶然性、偶発性が何を問いかけているのか、私たちが深く考えることなしにはあり得ない。