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岸田総理襲撃事件から考えるテロと言論の自由~覚悟すべき自由のコスト

民主主義社会におけるテロへの正しい対応とは何か

米山隆一 衆議院議員・弁護士・医学博士

 4月15日、和歌山県の漁港で、公示中の衆議院補選の応援演説をしていた岸田総理に、24歳の容疑者が自作の爆発物を投げつけるという事件が起こりました(参照)。その後、この人物が昨年、地元市議の市政報告会で、「市議選に出たいが、被選挙権が25歳からなので出られない」「憲法違反なので被選挙権を引き下げるべきだ」などと訴えていたことや(参照)、SNSで岸田総理を名指しして、世襲や格差を批判していたことが報じられました(参照)。

和歌山地検に送検された岸田首相襲撃事件の木村隆二容疑者(中央)=2023年4月17日、和歌山市の和歌山西署

岸田総理襲撃事件を契機に噴出した議論

 これに対して自民党細野豪志議員が、「今度こそ、24歳の男がどんな境遇にあろうが、テロ行為にどんな理由があろうが同情の余地がないことをマスコミは報じるべき。政治の責任は更に重い。安倍晋三元総理殺害テロに端を発し法案を通したことが本当に正しかったのかも検証が必要。このままだと日本の治安が崩壊する」(参照)、「私は機会に恵まれない若者たちのために仕事をしてきたし、これから全力を尽くす。大空幸星さんの活躍は目覚ましいが、この部分は賛同できない。私はテロを起こした時点でその人間の主張や背景を一顧だにしない。そこから導き出される社会的アプローチなどない」(参照)、「岸田総理を襲撃した男の人物像、テロの動機について報道合戦が始まった。私はこれらの報道に『売れる』という以外の価値を感じない」(参照)。として、テロの肯定どころか、その人物像や動機を報道すること、さらには「カルト被害防止・救済法案」のように、原因となったと思われる社会的事象に対処することすらも否定する言説を提起しました。

 これについてさらに、サイボウズ代表の青野慶久が「加害者が犯罪を起こした原因を探求し、課題を設定して原因を減らす必要があるという考えです」(参照)としたところ、やはり自民党の武井俊輔議員が「申し訳ありませんが100%間違っています。テロによって言論を封殺する者を寸分でも肯定することを誘発することは、結果としてテロリストを正当化することと同義です」(参照)と応じなるなど、議論が噴出しておいます。

 この問題は、民主主義社会において覚悟すべき、言論、そして自由を守るためのコストという極めて重要な問題をはらんでおり、私にとって思い入れ深い「論座」の最終稿を飾るにふさわしい話題だと思いますので、私見を述べさせていただきたいと思います。

テロは民主主義を脅かす言語道断のもの

 まずもって、今回の木村隆二容疑者の岸田総理に対するテロも、昨年7月8日の山上徹也容疑者の安倍晋三元総理に対するテロも、民主主義社会を脅かす言語道断のもので、かけら程も肯定するつもりはありません。

 しかし同時に、テロ犯の目的を達成させ、さらなるテロを誘発するから、テロ犯の人物像や動機を一切報道してはならず、テロ犯が目的とした社会問題にも一切対応してはいけないという自民党の細野議員や武井議員の主張にも、全く賛成できません。

 確かに、テロを行う者にとって、自分の人物像やテロの目的を世に知らしめることが目的の一つであり、それを報じる事はテロ犯にいくばくかの満足を与えることはその通りでしょう。そして、テロ犯がテロの目的とした社会問題に対応すれば、それはテロ犯の目的をなんであれ達成することになり、別のテロを惹起(じゃっき)しうる可能性があることも否定しません。

筒状の物体を投げた木村容疑者を取り押さえる警察官ら=2023年4月15日、和歌山市の雑賀崎漁港

犯人の人物像や目的を報道しなければ……

 一方で、仮にテロが起った時、そのテロ犯の人物像や目的を一切報道せず秘匿してしまったらどうなるでしょう?

 人の口に戸は立てられず、人の想像力と噂を止めることは出来ません。テロ犯について様々な憶測に基づく流言飛語が飛び交い、「偽の人物像」「偽の目的」が世の中に流布することになります。場合によっては、例えば関東大震災における朝鮮人虐殺事件のように、流言飛語によって「犯人の人物像と合致する」とか、「犯人の目的を共有する」とかとされた集団に対する、差別、暴行、暴動すら起こしかねません。

 さらに、「テロ犯」であれば、一切その属性を報道することなく処罰できるとなれば、国家権力が都合の悪い人物に「テロ犯」の汚名を着せて、秘密裏に処罰してしまうことも可能となってしまいます。実際、ナチスは1933年の国会議事堂放火事件でそれを実行し、独裁的権力奪取への第一歩を踏み出しました。

 また、テロ犯が目的とした社会問題に対応すると次なるテロを惹起すると言いますが、その社会問題に対応せず放置したら、その社会問題に苦しむ人がより一層、不満と絶望感を募らせ、それが次の、より苛烈なテロを誘発する事態も十分考えられます。貧困と民族問題を放置する限り、中東で頻発するテロに終わりが来ないことに、異論のある人は少ないでしょう。

 さらに、「テロ犯が目的とした社会問題には一切対応しない」となったら、これも偽のテロ犯をでっちあげて、都合の悪い社会問題に蓋をすることが可能となってしまいます。もし細野氏の言う様に、山上容疑者が目的としたという理由で、「カルト被害防止・救済法案」を成立させないということになるなら、他ならぬ統一教会が、でっち上げのテロを自作自演すれば、自らに都合の悪い法律の成立を妨げることが出来ることになり、それこそ次のテロを惹起しかねないのです。

 テロ犯が目的とした社会問題に対しては、テロを理由としてそれに対応することも、テロを理由としてそれに対応しないことも、いずれもテロに影響されていておかしいのであって、その社会問題が対応すべきならテロと無関係に対応し、対応する必要がないものならテロと無関係に対応すべきでない、に尽きると思います。

 結局のところ、「テロ犯の人物像や動機を報道し、テロの原因となった社会問題に対応するとテロを誘発するから報道/対応するな」と言う、細野議員や武井議員の主張は、「報道/対応した場合のデメリット」ばかりを言い募って、「報道/対応しなかった場合のデメリット」を全く考慮していない、極めて片面的なものだと言わざるを得ません。

安倍晋三元首相を銃撃した山上容疑者を取り押さえる警察関係者=2022年7月8日 、奈良市の近鉄大和西大寺駅北側

リベラルは「お花畑」な考え方ではない

 このように書くと、「ではお前は、テロの誘発の危険を放置するのか? これだからリベラル(私はかねてより「根がリベラル」を自認しています)はお花畑だ」などと揶揄(やゆ)されるのかもしれません。

 しかし、それに対して私は、明確に、「リベラルとは、ノーコストで自由を享受できるというお花畑な考え方ではない。自由を維持するために負担するコストを理解したうえでなお、覚悟を持って自由を守る考え方だ。私はテロを誘発する抽象的危険があるとしてもなお、崇高な自由を守るために、覚悟を持って、テロ犯の人物像と動機を報道し、テロ犯と無関係に、必要に応じて、社会問題に対応する。それが自由と民主主義を守り、テロを撲滅する道だ」と答えたいと思います。

「自由」は社会からテロをなくす重要な要素

 私事になりますが、私は30代の頃、アメリカに留学していました。最初はボストン市中心部のタワーマンションに住んでいましたが、家賃が高いうえ、周りは金持ちの白人ばかりで、一介の貧乏研究者の私にはどこか居心地の悪い所でした。気晴らしに外に食事に行っても、レストランはマッチョな白人のお兄さんと、素敵な白人のお姉さんが我が物顔で騒いでおり、なんとなく馴染めませんでした。

 1年を過ぎたころ私は、ボストン市内のドーチェスター(Dorchester)と言う移民の多く暮らす地域の小さな家の3階に引っ越す事に決めました。そこは当時、殺人事件も頻発し、何人もの研究者の仲間から「本当に大丈夫か? 止めた方がいいんじゃないか?」と言われました。

 でも、住んでみたらそこの生活は、楽で、そして自由でした。私は異邦人だけれど、周りも異邦人、誰に差別されることもない、自由で居られることが、こんなにも楽で、楽しいのかと、私は思いました。

 治安も命も、もちろんとても大事なものです。しかしそれと同時に、自由であり、そして同じ人間として扱われることは、時に人間にとって、もっと重要なことなのです。

 そして、自分は自由であり、他の人と全く同じ人間として扱われているという確信こそが、私は社会からテロをなくす最も重要な要素の一つだと思います。

人を正しい方向に導くのは「真実」

 繰り返しになりますが、私は、木村容疑者の岸田総理に対するテロも、昨年7月8日の山上容疑者の安倍元総理に対するテロも、民主主義社会を脅かす言語道断のもので、かけら程も肯定するつもりはありません。

 しかし、テロは現実に起こってしまい、起こったことは、幾ら人物や動機についての報道を制限しようが、対策法案を否決しようが、テロ犯が目的とした社会問題を放置しようが、なかったことにも、この世から消え去りもしません。人々は、そのテロ犯の人物像や動機に思いを巡らせ、テロの社会的背景を様々に分析します。

 そうであるならば、その人々の動きを最も正しい方向に導くのは、「真実」しかないと、私は思います。それぞれの報道機関、それぞれの個人が、自らの知る「真実」を、自らが適切と思う方法で伝え、そしてそれぞれが自らが適切と思う対応法を自由に議論する、それが、民主主義社会がテロに対峙するする最も正しい方法だと私は思います。

 そしてその過程において、仮に一定のテロを惹起する抽象的危険があり得るとしてもそれは、それをしなければ社会が被り得るより大きな損失を避けるためのコストとして、覚悟を持って対峙(たいじ)すべきだと思います。

ペンはテロよりも強し

 私は、覚悟を持って言論の自由を守り、目の前に現れた社会問題に適切に対処し続けることこそが、国民一人一人に、自分は自由であり、人間として尊重され、自分が関わる社会問題に適切な対応がなされているという確信を広めるものであり、テロを撲滅する最善の方法だ信じています。そして、政治家としてその実現のために、微力を尽くしたいと思います。

 ペンはテロよりも強し――

 この言葉で、私にとって思い入れ深い「論座」の最終稿を閉じさせていただきます。今まで大変ありがとうございました。