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【書評】「脱啓蒙」の科学カフェがほしい

尾関章

尾関章 科学ジャーナリスト

 【アスパラクラブ「本読みナビ」と同時掲載】サイエンスカフェという言葉が、だいぶ知られるようになってきた。僕が思い描くイメージは、いろんな人が喫茶店のようなところに集まり、さりげなく科学の話を交わす、といった感じなのだが、そんな雰囲気をつくり出すのはなかなか難しい。どうしても科学教室風の啓蒙感が漂いがちだ。

拡大科学カフェではなくふつうのカフェの人模様。こんな場所で自然に科学が語られるようになったらいい=京都市内で、尾関撮影

 科学メディアに身を置く者として、僕自身も脱啓蒙のカフェをぜひやりたいのだが、果たしてほんとうに楽しそうにお客さんが訪ねてきてくれるものか自信がもてない。この状況をどう打ち破るか。そんなことを考えていたら、折よく今秋、この本が出た。『科学は誰のものか――社会の側から問い直す』(平川秀幸著、NHK出版 生活人新書)。https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=00883282010

 著者は大阪大学で科学技術社会論に取り組んでいる。その研究グループは、再生医療を題材に「あえて専門家抜きで、『素人』の参加者だけで議論するサイエンスカフェを、あちこちの会場で連続的に開いている」という。脱啓蒙カフェの先達ではないか。これは、どうしても読まねばなるまい。

 読み進むと「なしだけ」というおもしろい語感の言葉に出会う。現代社会には、いくつもの「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題」(「科学なし/だけ問題」)があるという。これが、この本の一つのキーワードだ。

 世間には、科学に対する「正解」神話がある。人生は不確かなことだらけなのに、「科学だけは例外で、たとえ時間はかかっても、最後は必ず白黒ハッキリした確実な正解を与えてくれると思っている人は多いのではないだろうか」と、著者は問いかける。学校の授業しかり、テレビのクイズ番組しかり。だが、科学は、その核心に不確かさをはらむ。だからこそ、科学だけで解けない「科学なし/だけ問題」が多いのである。

 公害などでは、白黒の決着を追い求めているうちに被害が広まることがある。これを「分析による麻痺(paralysis by analysis)」というらしい。韻を踏んでいて覚えやすい言葉だ。その回避には「真っ黒と真っ白のあいだで、科学の『正しさ』や『確かさ』、そして『不確実性』を認め、幻想に囚われない現実的な感覚で判断していくしかない」。

 一つの解決法は、「事前警戒原則」(「予防原則」と呼ばれることが多い)だ。証明されていないから手を打たないという姿勢を捨て去り、証明が不確かでも手を打つことに前向きであろうとする立場である。著者は、一つのリスクを早手回しに避けることが別のリスクを高めかねない、などいくつかの負の側面をきちんと押さえつつ、この原則は、科学の不確かさに直面したときの「とりあえずの答え」だとしている。

 「なし/だけ」の「だけ」は、こうした問題は科学者だけで決めるべきではない、ということを意味している。この本は、「科学技術が社会に影響し、社会を変える」だけでなく「社会が科学技術に影響し、科学技術を変える」ような「共生成」が求められている、と主張する。ならば、科学者ではない人々も、もっとものを言う必要がある。

 では、専門外の人々は、科学を語る術をどのように身につければよいのか。著者が力説するのが「知ること」と「つながること」だ。図書館やインターネットで文献にあたり、専門家の知識を吸収する。同じ関心を抱く人々との情報をやりとりする。そんなイメージだ。ひと昔前の「反対運動」とは趣の異なる知のネットワークを築こうというのだ。

 ここで最大の壁は「科学の価値中立性」聖域論だ。著者も「事実が政治的イデオロギーや経済的利害、価値観によって捻じ曲げられてはならない」という考え方は尊重する。だが、それはあくまで事実不可侵の規範であり、科学をめぐる営みのすべてに及ばないとの立場をとる。問いの立て方や答えの解釈のしかたには価値観が入って当然で、その入り込み方を「幅広く公共的な観点から吟味」しなくてはならない、という。

 欧州の遺伝子組み換え作物問題では、安全性の有無という事実を争う側面と別のところで、もう一つの論争があったと著者はみる。各国の間には「『望ましい農業モデルと食文化とは何か』をめぐる価値観の対立」があり、それも規制強化に反映されたらしい。

 さて、この本で、もう少し書いてほしかったことがひとつある。それは、世の中の動きとは離れた純粋科学――天文学、素粒子論、人類学など――をめぐって、科学者でない人々が科学者とどう対話すべきか、ということだ。

 実験や観測に巨費がかかる一方、研究費のパイをどう分け合うかが焦眉の論点となる今、科学者ではない納税者がどんな知的冒険を望んでいるかも公の場で論じ合われるべきだろう。こんなテーマのサイエンスカフェは、どうしたらできるのだろうか。

(朝日新聞の無料会員制サイト・アスパラクラブ「めざせ文理両道!本読みナビ」https://aspara.asahi.com/blog/ArticleList.do?siteId=ff808081279082cd012799d7f57901adにアップしたものを短縮しています。「本読みナビ」はブログ形式ですので、コメントの書き込みもお受けしています)


筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。1週1冊のブログ「本読みby chance」を開設中。

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