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 いわしの頭も信心から。昔からよく聞くことばだ。病は気からとか、万事気の持ちよう、とも言う。またスポーツや武道では、技術的なことよりも精神力、気合いが大切だと教える。それぞれ意味は違うが、いずれも「心で、脳や体は制御できる」と言っている。こういう考え方は古くさいのきわみで、いずれ科学の進歩が駆逐すると考える人も多いだろう。だがその割に、教育や修練の現場では根強いのも事実だ。本当のところはどうなのだろう。

拡大米国で発売された薬(左)とそのプラセボ(右)

 プラセボ(プラシーボ、偽薬)効果の研究が、それを解き明かそうとしている。プラセボ効果とは、薬効はないが気休めに飲む偽薬の、心理的効果を指す。まさしく「いわしの頭も信心から」だ。たとえばただのビタミン剤でも、「鎮痛効果がある」と言われ、信じて飲めば頭痛が引いてしまうことがある。むろん正式の薬効とは認められない。

 データベースで検索すると、95%以上は新薬の治験に関わる論文が出てくる。薬の効果全体からプラセボ効果を差し引いたものを、「正味の」薬理効果と考えるからだ。これが統計学的にはっきり認められないと、新薬としては認可されない。ところが最新の研究で、あながち「偽の効果」とばかりも言えないことがわかってきた。それが薬品認可の制度には政治的混乱を、哲学的(神経学的)には根本的な問題を提起している。

 プラセボ効果そのものは、70年代までには専門家の間で認められていた。が、あくまでも心理的な効果、たとえば期待の効果に過ぎないと考えられてきた。その常識が、PET(ポジトロン断層撮影)やfMRI(機能的磁気共鳴断層撮影)など、新しい技法による最新の研究で覆ろうとしている。

 新知見を一言で言えば、プラセボ効果の神経メカニズムは、本物の薬効のそれと驚くほど似ている。「プラセボはあくまでも偽の効果、だから神経メカニズムもまったく違う」という前提が、覆りそうなのだ。

 体(脳)に作用する薬は普通、「ボトムアップ」の仕方で働く。たとえば脳内に入った化学物質が、神経伝達物質の受容体によって取り込まれる。あるいはそれを促進したり逆にブロックしたりして、神経系の活動を変える。これが精神作用をもたらす。

 他方プラセボ効果は逆で、「トップダウン」に働く。たいていは言葉によるやりとりから入り、知識や周辺の認知的な手がかりと併せて、薬と似た効果が得られる。だからたとえば、医者が名医で、それにふさわしい風貌や話し方をしている等という手がかりが効く。

 ところが最新知見によれば、神経伝達物質のレベルでさえ薬と酷似した効果が見られるという。たとえばパーキンソン病という病気がある。かのモハメド・アリも苦しんだ。脳内の報酬系、特に黒質からのドーパミンの分泌が著しく低下し、その結果運動機能ばかりか認知機能まで低下する。有効な薬はたいてい脳内のドーパミンを増大させ、機能を改善したり、さらなる低下を防ぐ。

 この病気では、なぜかプラセボ効果が出やすい。そこで研究者たちは、プラセボが著効を示している患者からPETのデータを採った。その結果なんと、黒質でドーパミンの量が増えていた。

 プラセボは、パーキンソン病治療の他、鎮痛薬、睡眠薬の効果や、カフェインの覚醒効果などにも著効を示す。それらでも似た知見が蓄積されつつある。要するに、プラセボも薬の「本当の」効果の一部、ということだ(ただし個人差は大きく、薬の効く人ではプラセボとの相互促進も大きい)。

 東洋医学で言われる「気」の効果についても、「科学的な」検証では否定的な結果が多い。がそれらの否定的な結果はたいてい、プラセボ的な効果を排除して得られたものだ。先の新知見を前提に考えると、違う解釈ができる。

 つまりプラセボこそが気の効果の本質なのではないか。さらにそれは「偽物の効果」ではなくて、ある意味本物の効果なのではないか。だとすると、先に述べた偽薬効果の制御による新薬認可のシステムもおかしくなる。政治的混乱、と書いたのはその意味だ。

 プラセボの研究史が面白いのは、東洋医学と西洋医学の違い、ひいては東西の文化差を、遠く照射しているからだ。なぜこれだけ科学と西洋医学が進んでいるのに、東洋医学やスピリチュアルな癒しがすたれないのか、不思議に思う人も多いだろう。だがむしろ逆だ。プラセボに代表される心の作用こそ、古くさいようで、むしろ神経科学の未来形なのだ。

 気の持ちようが大切ということは、日常のコミュニケーションが大切ということにもつながる。職場や学校の人間関係、家庭での心の問題など、応用範囲は広い。グループで信じることの劇的な作用。災害のパニック状況や、大衆政治における雪崩効果など。いかに科学が進歩しても、気の持ちようが重要であることは変わらない。

 とはいえ、昔の精神主義に戻れと言いたい訳ではない。たとえば、ボトムアップの効果とトップダウンの効果とが、どのように組み合わせれば有効に作用するのか。認知神経科学が解き明かすだろう。蔓延するオカルティズムとは一線を画する、新しい精神主義を夢想してみたくなる。

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筆者

下條信輔

下條信輔(しもじょう・しんすけ) 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授。認知神経科学者として日米をまたにかけて活躍する。1978年東大文学部心理学科卒、マサチューセッツ工科大学でPh.D.取得。東大教養学部助教授などを経て98年から現職。著書に『サブリミナル・インパクト』(ちくま新書)『〈意識〉とは何だろうか』(講談社現代新書)など。

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