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「個独」と「複製」のはざまで生きる

武村政春

武村政春 東京理科大学准教授(生物教育学・分子生物学)

 人間とは何かを考える時、私はいつも「生物の世界」を中心にして考える。生物学を生業としている限り、そのしがらみから抜け出ることはないだろう。

 家族のぬくもりから離れたまま独り死に、あるいは長年連れ沿った配偶者に先立たれ、独り生きてゆくという人間模様。失業し、失意のうちに世捨て人となっていく人々の苦悩。それは、年末年始にかけて朝日新聞に連載された「孤族の国」――。誕生し、生きて、やがて死ぬ。その過程で訪れる、「孤独」という名のついた生き様、そのものだった。

「孤族の国」で取り上げられたケースは、人間としての当たり前の感情からすれば、どれも一様に物悲しく、切ないものである。だがこれを、人間という存在そのものがある宿命を背負った存在であると考えてみると、確かに物悲しくはあるけれども、じつはその人間模様の中に、生物としての人間が人間として素のままに生きようとする姿を、ちらりと垣間見ることができるのではないか、と私はそう思っている。

 現代を「複製社会」であるとみなす考え方がある。ベンヤミンや長谷川如是閑、そして多田道太郎は、複製的様相を呈する芸術、あるいは複製が芸術の浸透の根本をなすような(たとえば映画のような)芸術を「複製芸術」とみなしたが、私たちの身の回りに氾濫する複製的商品やコピー文書の束を見れば、現代社会が「複製」――私はそうしてできたモノを「複製産物」とよび、複製産物を作り出す行為そのものを「複製」と呼ぶ――によって成り立っていることは一目瞭然である。

 私たち人間、それ自身もまた、生物である以上は複製産物である。生物の源流をさかのぼれば、

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