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【書評】原発災禍で思う市民科学の大切さ〈無料〉

尾関章

尾関章 科学ジャーナリスト

 【アスパラクラブ「めざせ文理両道!本読みナビ」と同時掲載】いま原発批判の論客、高木仁三郎さんが生きていたら何を語るだろうか。一つだけ、断言できることがある。それ見たことか、とは口が裂けても言うまいということだ。宮澤賢治を愛した、心優しい高木さんは、東北地方を「面」で襲った津波と放射能の複合巨大災害をだれよりも悲んでいるに違いない。

 放射線のなかを飛ぶヘリコプターの窓から撮られた東京電力福島第一原子力発電所の光景は衝撃的だった。建屋の屋根が吹っ飛び、中がのぞける、という怖さ。核燃料棒が行儀よく並ぶはずの空間が瓦解物のジャングルと化した様子は、四半世紀前に見た旧ソ連チェルノブイリ事故炉の空撮映像かと錯覚したほどだ。もちろん、チェルノブイリ原発の爆発ほど重篤ではないが、よもや日本列島では起こるまいと思われていたことだった。

 もはやヒヤリ、ハットの小さなトラブルで大きな教訓を得る、という次元をはるかに超える事態に僕たちは直面している。とても、「それ見たことか」などといえる状況ではない。これは、原発批判派の人々に共通する受けとめ方だろう。

拡大原子力資料情報室で書棚を前にした高木仁三郎さん=1997年、東京都内で渡辺剛士撮影

 高木さんの本は、当ブログ去年11月19日付の「アトムとの向き合い方」でも紹介した。がんで亡くなった2000年の暮れに出た『原発事故はなぜくりかえすのか』(高木仁三郎著、岩波新書)。「友へ」と呼びかける「最後のメッセージ」を盛り込んだ遺書といってよい著作だった。

 今回とりあげるのは、『市民の科学をめざして』(高木仁三郎著、朝日選書)。99年初めの刊行なので、やはり晩年の思いがこもっている。

 この本で驚くのは、著者たちが1990年代に試みた福島第一原発の事故シミュレーションの一端が紹介されていることだ。格納容器が壊れる事故を想定して、周辺地域にどんな放射線被害が起こるかを見積もっているのだが、その推定結果を見ると背中が凍る。格納容器の本格破壊に至っていないという現時点の状況をなんとか守りきらないといけない、と痛切に思う。

 さて、この本の書きだしに出てくるのが、1997年初めに日本海沿岸で起こったナホトカ号の重油流出事故だ。原発取水口のオイルフェンスに流れ着いた重油の塊は、手作業で取り除かれた。「必死にひしゃくでかき出す作業員と背景にそびえ立つ原発の巨大ドーム、不安そうにそれを海岸から見守る住民……この構図の中に、現代科学技術の性格とその前に置かれた市民の立場が凝縮されているのではないか」

 ここで著者は5~6歳のころ、ひしゃくを使ってトイレのくみとりをさせられた思い出を語る。戦争中のことだという。トイレのほうは、くみとり式がバキュームカーに、バキュームカーが水洗式に変わったが、「最先端の技術が適用できそうな重油回収の分野」ではひしゃくが頼り、という皮肉。

 今回の福島第一原発災害では、次から次へハイテク放水車などが登場したが、それを使おうとして、放射線が飛び交うなか人手でホースを延ばす、などという場面もあったらしい。そんな汗みどろの作業を、報道を通じて知る多くの人々は「不安そうにそれを海岸から見守る住民」と同様の立場に置かれている。

 この本には、米スリーマイル島原発事故の後日談が出てくる。1979年、米国はカーター政権の時代だった。米政府には、原子力利用の推進機関と切り離して、安全規制を担う「原子力規制委員会(NRC)」があるが、事故を受けてさらにそれと別の「大統領委員会」が設けられた。その大統領委が勧告したのが、ふつうの市民もメンバーとする「原子炉安全監視委員会」。こうして、独立したチェック体制づくりを次々に試みていたことになる。

 ところが、この最後の切り札の「原子炉安全監視委員会」は「大統領に組織された画期的な安全監視システムとして発足したのであるが、その後目ざましい活躍をせずに終わった」。原発を第三者の目で監視することが、どれほど難しいかがわかる。

 その理由として挙げられるのが、「専門性と独立性の両立の困難」だ。委員会は、審議のためのデータを政府機関や原子力業界に求めざるをえない。委員会メンバーのうち、専門家は大半が原子力関係者だ。「委員会の独立性は、非専門的メンバー、とくに市民代表のような人たちにかかってくるが、この人たちは、専門的にはほとんど力がなく、専門家が提出したデータや技術的結論はほとんどまるごとに信用するしかなくなる」

 こうしたなかで強調されるのが「批判的専門性の組織化」の必要だ。それは「市民の立場に立ちつつ十分に専門的な検証に耐えられるような知を市民の側から組織していくこと」だという。市民の側にいて専門性を発揮する人――これこそが、著者が生涯をかけて体現しようとした科学者像である。

 1970年代初め、日本でも世界でも、科学技術批判の大きな波が起こった。それは当時、科学技術の現場でそれがはらむ問題に気づいた人たちに三者択一を迫ったのだという。三者とは、科学者、技術者であることをやめる、科学技術の世界にとどまって体制内変革をめざす、体制に別れを告げて「自前」の科学技術を築く、という三つの道である。著者は、敢えて3番目の道を選んだ。

 スリーマイルよりもチェルノブイリよりも早く、75年、仲間とともに東京・神田に「原子力資料情報室」を開く。まだ、「NGO(非政府組織)」とか「NPO(非営利組織)」とかいう言葉が広まっていないころだった。これは世界全体でみても先端をゆく試みだったが、ドイツなどでは、後からできた市民サイドの独立研究機関がどんどん大きく育っていく。「西ドイツの人たちにあっという間に先を越された形となった」と書く著者は、ちょっとくやしそうだ。

 この本では、ドイツに生まれたいくつかの独立研究機関が紹介される。彼らは、ただ反対運動にかかわっただけではない。科学資料をつくろう、ときには独自の実験や測定もしよう、という前向きの志向が根っこにあった。ここで注目したいのは、これらの組織で働く人たちの給料だ。1980年代後半の時点では、日本円にして10万~20万円。理系の専門教育を受けた人々が、決して楽ではない生活をしながら自らの志を貫いていた。

 90年代、僕がロンドンにいたころ、夜になっても取材ができる相手は環境NGOのスタッフだった。欧州で一番の働き者を自負する英国人がオフィスにいるのは、だいたい夕方6時まで。ところがNGOを訪ねると、9時、10時でも煌々とあかりがついていた。省エネには逆行かもしれないが、彼らこそ働き者だった。そこには活動家もいるが、「博士」たちもいる。NGOは運動体であると同時に、志を共有する科学者が結集するシンクタンクだった。

 いま、福島第一で一進一退を続ける事態の報道を見ていると、パニックを防ぎたいという思いからか、事態を過大視すまいというコメントが目立つ。過不足なく言うことはなによりも大切だが、同じことを言うのであっても、それを「独立」した市民派の科学者が言ってくれたなら、どれだけ説得力があるだろうかと思う。日本にも、志をもって自前の科学をめざす人々がもっと多くいてくれたなら……。高木さんが亡くなって10年余、原発が市民に牙をむいた春にそんなことを痛感する。

 いまだからこそ、高木仁三郎さんの声が聞きたい。

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筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。1週1冊のブログ「本読みby chance」を開設中。

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