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問い直される日本の社会と科学・技術

吉田文和

吉田文和 愛知学院大学経済学部教授(環境経済学)

 東日本大震災から発生以降2カ月以上たったが、日本の社会と科学・技術のあり方に大きな問題を提起している。当初、専門家から指摘されていたレベル7、メルトダウンという事態を、東京電力と政府が認めるにも1カ月から2カ月もかかった。

 「想定外」という言葉も繰り返えされた。「想定外」とは、「想定」が誤っていたことを素直に認めないことの、別の表現である。地震学から気象学、土木工学に原子力工学、そして東京電力に至るまで、繰り返し表明された。福島第1原子力発電所の「全電源喪失」による事故は、「想定外」の津波による被害が原因とされている。しかし、土木学会による5.7mという津波の想定自体は電力関係者が主になって作成され、「第3者性」を強く疑わせるものであった。「想定外」が、自分たちの責任を軽減するための「合言葉」となっている。

 「ヒロシマ」から「フクシマ」へという評論も公表された。例えば、『ニューヨーク・タイムズ』3月16日付けジョナサン・シェル「From Hiroshima to Fukushima」は、「問題は、非常用発電機や安全基準などではなく、人間はその本質として誤りを犯しやすい存在だということである」として、原発事故を核利用の現代史に位置づけて評論するという試みである。

 これに対して、私はヒロシマとフクシマを、日本社会の問題として考えてみる必要があると思う。かつて日本は、ヒロシマとナガサキへの原爆投下によって、ようやく「終戦」という敗戦を認めた。大東亜共栄圏という理念を掲げて彼我の国力の差を顧みず開戦し、戦況悪化と大都市空襲被害という現実・実態を無視し、理念と現実の乖離に目をつむり、いくつくところまで行った結果であった。

 今回の福島第1原発の事故の遠因は、「原発は安全」「原発は安い」という理念、神話に基づくものであった。他国と違い、地震の多い日本になぜ原発を立地させるのか、しかも海岸沿いに集中する立地で、安全なのかという問いが発せられても、「多重防護」で安全という理念が繰り返されるだけであった。

 相次ぐ事故や事故隠し、データ改ざんがあっても、そこから教訓を引き出し、一般化して、対応するということが行われないままに、原発の新増設がすすめられてきた。高速増殖炉と再処理工場ができないという現実があるのにもかかわらず、「資源のない日本」を錦の御旗に、「核燃料サイクル」の理念の再検討をせずにそのまま進み、使用済み核燃料の行き場のない状態が迫っている。

 もう1つの大きな問題は、日本の社会に「リスク管理」「リスク訓練」「兵站」の考え方が十分根付いていないことである。まさに、「万が1」に備えたリスク管理と訓練を日常的に行うことが、「安全」、「安い」という理念に反するかのように考えられ、真剣に検討されることのないままに、「全電源喪失」「炉心溶融」などの最悪の事態は「想定外」とされ、希望的予測に置き換えられた。

しかし、一度事故や災害に会うと、重要になる物資の兵站(ロジスティクス)、要員の交替と休養を十分にとらず、さらに疲弊して、被害を拡大させるという悪循環に陥る。旧日本軍がもった体質は改まっていない。

 原子力発電所の事故をめぐる問題でも、実態把握が遅れ、原子炉がどうなっているのか詳細は不明のままに「工程表」がつくられ、「全電源喪失」という発電所が電気を取れない、停電するという事態に対して、原子炉の専門家は原子炉内の反応を問題にし、電源・電気の問題は電力工学の問題であるといわんばかりの、縦割りの科学やエンジニアリングの問題が今回も露呈した。

 全体をコントロールしているはずの電力会社も、プラントのことはプラントメーカーしかよく分からないというような事態である。たしかに原子力発電所の最初の「フル・ターンキー方式」(プラントメーカーが建設して引き渡す)が福島第1原子力発電所だったのである。しかも、GEの設計がその通りにできているかも、確かめようがなかったのである。ここにきて、日本の科学・技術の底の浅さが露呈するのである。原子力発電所の元現場監督であった平井憲夫氏がこう証言している。

「例えば、東京電力の福島原発では、針金を原子炉の中に落としたまま運転していて、1歩間違えば、世界中を巻き込むような大事故になっていたところでした。本人は針金を落としたことは知っていたのに、それがどれだけの大事故につながるかの認識は全然なかったのです。そういう意味では老朽化した原発も危ないのですが、新しい原発も素人が造るという意味で危ないのは同じです」(『情況』2011年、第11巻第12号、31頁)。

 今回の地震、津波、原発災害に際して、多くの悲惨な事態のなかで、人間の尊厳を見ることができたのは、日本社会の可能性を示している。しかし同時に、日本社会の問題性も白日のもとにさらした。「人間は悲惨の中に人間の尊厳を見ることができるが、それは繁栄の中に堕落を見る目と一対のものである。――素人が何を言うか、と言わんばかりだった原子力の専門家たちの傲岸。素人の危惧が100%正しかった」(「悲惨の中に見える本物」日経2011年4月15日『大機小機』)。まったくその通りである。

 技術は、人間社会の目的に対する手段である。手段にとらわれて目的を見失ってはならない。目的に対して手段が適合しないならば、別の手段を選ぶのも人間社会である。

 私は、反科学・反技術の立場ではないし、日本社会のもつ強さと復元力を信じるものであるが、それにしても、今回の事態が、日本の社会と科学・技術のあり方に提起している問題を受け止め、考え直さなければ、日本の再出発はありえないと思う。

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筆者

吉田文和

吉田文和(よしだ・ふみかず) 愛知学院大学経済学部教授(環境経済学)

1950年生まれ、兵庫県出身、京都大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。北海道大学大学院経済学研究科教授を経て2015年から現職。北大名誉教授。専門は、環境経済学、産業技術論、主著『ハイテク汚染』岩波新書、『環境経済学講義』岩波書店、最近は低炭素経済と再生可能エネルギーの普及に関心を持つ。札幌郊外の野幌原始林の近くに住み、自然観察と散歩を趣味とする。

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