メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

さようなら菅さん 誰が継ぐ脱原発の熱気

竹内敬二 エネルギー戦略研究所シニアフェロー

私はずっと、「菅前首相はなぜ脱原発依存を決心し、その気持ちはどの程度強かったのだろう」と思っていた。首相を辞任したあと、菅氏は朝日新聞とのインタビューに応じ、私も他の記者と一緒に聞く機会を得た。(9月6日朝刊に記事掲載)。そこで感じたのは、菅氏の「本気」だった。限られた情報しかない状態で何万人もの避難を命じるギリギリの判断をする中で、「これは国が成り立たなくなるほどのリスクだ」と考えるに至ったのだという。私は、取材という別のフィルターから同じ事故を見てきたが、原子力に対して感じた怖さ、リスク観には共感するところが多い。原子力に関しては「熱い」首相だった。

 私は「なぜ脱原発依存を打ち出したのか、本質的に原子力がだめだと思った理由は」と聞いた。

 「本質的にはリスクだよ」という答えが返ってきた。「最初の一週間に、避難域は一体どこまで広がるのかと思った。30キロ圏の屋内退避までやったが、米国は50マイルだった。半径300キロの円を描くと、東京も入ってしまう。日本という国が成り立つのかと思った。100年に一回起きてもとんでもない話だ。そんなリスクが高いものへの依存を続ける必要はない」

 原発の潜在的リスクが大きいことは誰でも知っている。しかし、日本人は、「まあ大事故は起きないだろう」という集団信仰のような思考の中で原発を増やしてきた。福島で事故が起きても、「それでも原発の電気は必要だ」という声は強い。これまで国をあげて蓄積してきたものがあまりに大きく、国のシステムを変えるのは難しいと思ってしまう。

 菅氏は首相という座にあっても、リスクを正面から見すえ、考えを変えたのだという。

 代替については、「再生可能エネルギーで十分あると思っている」と言い切った。「その話を始めると止まらないが、植物だけでもかなりやれると思っている」という。これほど強く再生可能エネルギーを支持していたとは知らなかった。

 インタビューでは、記者の聞きたいことと、前首相のいいたいことが、しばしばズレる。そんなとき、「いま言ったじゃない」「いやに重箱の隅みたいだが・・」とイラだちを隠さない。しかし、各局面で何を考えて判断したかを説明しようという熱意を強く感じた。原子力の知識にも詳しい。

 印象的だったのは、何度も「正解はないんだ」と繰り返したことだ。「振り返ると大間違いの情報もあったし、いろんな情報の中で総合的に考えるしかないんだ」

 そして、「一番苦悩した判断はいつだったか」の質問に、菅氏は「15日の朝」と答えた。

 これには、驚いた。私自身も3月15日の朝を、最も恐ろしい時間として記憶しているからだ。

 菅氏がいう「苦しい判断」は、この日朝、自ら東京電力に乗り込んでいって、そこで東電と政府の統合本部をつくったことをさしている。

 確かに、官邸ではなく、政府が一民間企業に行き、その場所で本部をつくるのは異様なことだ。

 3・11以降、首相官邸と福島原発の間の意思疎通がうまくいかなかったという。「ベントをやるべきだというのは、事故当日に、私の周囲にいる人が全員言っていた。それでベントをやれ、といった。最初に言ったのは当日の夜中のはず。しかし、一向に実施されない。2回も3回も4回も言った。なぜできないのかも伝わってこない」。結局、ベントは12日の14時半ごろにずれ込んだ。

 東電本社が間に入ることで、現場への指示は「伝言ゲーム」のようになり、隔靴掻痒の感が強かったという。本部設置以降はコミュニケーションが格段に改善された。

 菅氏は、東電の設備のすごさに驚いたという。「東電の中に入ったのはそのとき初めてだった。行ってみたら、(官邸の)危機管理センターに負けないくらいの設備があって、ありとあらゆるところにつながっている」。大きな画面の向こうには、福島第一原発の幹部が並んでいた。

 15日朝は、原子炉の状態が最悪の方向に向かって急展開していた。1号機は3月12日に水素爆発を起こしていたが、これに続き、14日午前11時に3号機で水素爆発が起きた。15日午前6時ごろには、2号機で格納容器の圧力抑制室が壊れたと思われる爆発音が起き、付近の放射線量が跳ね上がった。同じ午前6時ごろ、4号機の建屋でも水素爆発がおきた。一連の爆発で大量の放射能が放出された。

 午前10時ごろに始まった朝日新聞の夕刊の編集会議は、極度の緊張に包まれ、全員が立ったままで議論した。

 私は夕刊に、解説記事を書くことになった。編集会議では「すでに大量の放射能が外に出た。格納容器などの大規模な爆発が続いて、さらなる大量放出という事態もありうる」と発言した。

 一面の解説「最悪の事態に備えを」を書きながら、「どこまで汚染が広がるのか」と震えるような怖さを感じていたことを覚えている。このとき、何度も取材したチェルノブイリの無人の土地と福島が重なった。

 解説記事の中で「多くの人は信じがたい思いでニュースを見ているだろう。未曾有の地震と津波が原因とはいえ、日本は技術先進国の誇りと、被爆国の慎重さをもって原子力を開発してきたはずではなかったか」と書いたのは、自分の気持ちでもあった。

 振り返れば、15日以降、さらなる破局的な大爆発は起きなかった。それでも、いま被災地を苦しめている放射能の多くは、風向きもあり、15日に放出されたものだということがわかっている。

 私は3・11、あるいは3月15日を境に、日本は別の国になったと思っている。「原発大事故を起こしてしまった国」としてさまざまな覚悟が必要な国になった。

 その「覚悟」を考えるうえで、不可解な「事件」がある。「東電の撤退騒ぎ」だ。

 これは、「第一原発の汚染がひどいので東電職員が第一原発から撤退する」と15日未明に菅首相に伝え、首相が「撤退したら東電は確実につぶれるぞ」と激怒して、止めさせたという話である。

 この件について、東電は「原発を放置して撤退するわけがない。一部の職員を移すといったことが誤解された」と説明している。「そうだろうな」と思う半面、これもおかしいと思う。その程度のことなら、ひとこと「いや作業者は残ります」といえば、その場で誤解が解けるはずだ。菅首相と、清水東電社長が面と向かってこれについて話をし、菅首相が怒ったようなのだ。

 菅氏はインタビューでこう答えた。「経産大臣を通して午前3時ごろに言ってきた。福島第一には六つも原子炉がある。撤退して何週間かたてば全部メルトダウンになる。(一つの炉が事故を起こした)チェルノブイリどころではないよ」「清水社長と話したら、はっきりしないんだ。これでは危ない、ちゃんとグリップしなければならないと思った。だからその日、統合本部の設置を提案した」

 海江田氏もテレビ局のインタビューで、「撤退の話があった」と明言している。「単純な誤解」とは言っていないのである。実際にはどんな計画で、どのような会話をしたのかをぜひ知りたい。

 私は長い間、原発問題を取材しているが、正直言って、通常の手続きを超えた菅氏のいくつかの指示、決定には驚いた。

 一つは浜岡原発の停止だ。「次に危ないのは浜岡だな。地震の震源域にあるから」。多くの人がこう思っていただろうが、手続き的に瑕疵がないものを止める理由はない。私たちも提起できなかった。しかし、菅氏は地震の発生確率が高いという理由を正面に据えて止め、国民の支持を受けた。

 ただ、菅氏がインタビューで答えたところでは、浜岡停止は、もとは海江田大臣の提案だった。そして、経産省は「浜岡は止めるが、他の原発は動かす。それも保安院のチェックで再稼働できるようにする」というシナリオをつくろうとしていたという。

 菅氏はこれを阻止し、ストレステストの導入、環境省に原子力安全庁をつくることに力を注いだ。かなりの力技だ。メディアの多くは、これらを「退陣する首相がやってもしょうがない」と冷笑的にみていたが、菅氏は逆風の中、やれるところまでやったということだろう。 ・・・ログインして読む
(残り:約45文字/本文:約3316文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
Journalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

竹内敬二

竹内敬二(たけうち・けいじ) エネルギー戦略研究所シニアフェロー

エネルギー戦略研究所(株)シニアフェロー。元朝日新聞編集委員。科学部記者、ロンドン特派員、論説委員などを務め、環境・原子力・自然エネルギー政策、電力制度などを担当してきた。温暖化の国際交渉、チェルノブイリ原発事故、3・11などを継続的に取材。著書は、電力業界が日本社会を支配するような社会産業構造がなぜ生まれたのか、なぜ福島事故がおきたのかを描いた『電力の社会史 何が東京電力を生んだのか』(朝日選書、2013年)。

竹内敬二の記事

もっと見る