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ケアとしての科学(下)定常社会に寄り添う

広井良典 京都大学こころの未来研究センター教授(公共政策・科学哲学)

 前回はこれからの科学のあり方として「ケアとしての科学」という方向について述べたが、ここではそれをもう少し広い社会的文脈の中で考えてみたい。

●経済の成熟化・定常化とケア
 90年代ごろから医療や福祉分野を中心に「ケア」というテーマへの関心が高まり、それは2000年代に入ってより幅広いものになっていった。その背景には、次に述べるような社会構造の変化があったと言えるだろう。

 それは大きく言えば「成長・拡大」の時代から成熟化という変化であり、私自身がよく使ってきた言葉では「定常化」ないし「定常型社会」への移行という時代の流れである。言い換えれば、近代ないし16~17世紀前後以降の「市場化→産業化(工業化)→金融化」というステップを通じた、市場経済ないし資本主義の量的拡大の時代と、その終焉ということである。

 なぜこうした社会構造の変化と「ケア」が関係するのだろうか。次のように考えてみたい。

 成長・拡大の時代とは、人間が技術(テクノロジー)を使って新たな形で自然資源を利用し――強い表現を用いれば自然を搾取し――、物質的生産を拡大させるという時代にほかならない。近代以降について言えば、とくに18世紀に生じたいわゆる産業革命を通じた産業技術の展開と、それに伴う石炭・石油などの地下資源(化石燃料)の大がかりな開発がそのベースをなしていた。

 こうした時代にあっては、そのような「自然のコントロールないし支配」と、それによる「物質的生産の量的成長」あるいは「外的な拡大」ということに人々の主たる関心が向かい、コミュニティや人と人との関係のあり方といったものは、それに対して半ば「手段的」なものとして退き、一次的な関心事からは後退する。

 これに対し、成熟・定常化の時代においては、そのような「外に向かっての物質的拡大」が何らかの理由(需要の飽和や資源・環境的な制約)で限界に至り、人々の関心のベクトルが反転して自ら自身あるいは「人間」そのもの、ないし人間と人間の「関係性」そのものに向かうという現象が生じるのではないだろうか。そしてここでまさに浮上するのが「ケア」というテーマではないだろうか。

 こうした意味で、ケアというテーマについて考えることは、成長・拡大の時代とは質的に異なるような、人間と人間、そして人間と自然の関係のあり方を再考することと重なるのである。

 実は、ここで意外にも、「ケア」ということがもっとも早い段階で言われるようになった文脈とのかかわりが出てくる。それは医療の領域で、70年代前後から「キュアからケアへ」ということが様々な場面で論じられるようになっており、おそらくそれが「ケア」という言葉が一般の関心を集めたもっとも初期の流れだったと思われる。その中には、急性疾患に対する慢性疾患への対応ではキュアのみならずケアが重要ということのほか、自ずと終末期ケアないしターミナルケアをめぐる課題が含まれていた。

 日本でもっとも早く「ケア」という言葉を本のタイトルに使ったのが、精神科医師で死の臨床に深くかかわっていた柏木哲夫の『死にゆく人々のケア』(医学書院、1978年)であったことは象徴的である。

●「キュアからケアへ」の意味の再考
 いまあらためて、こうした本が30年以上も前に公刊されていたこと(及びその先駆性)にある種の感慨を禁じえないが、ここでの文脈に引き寄せて考えれば、おそらくこの本の出された1978年という時期は、いわゆる高度経済成長の最盛期(1950年代~60年代ないし1973年のオイルショックまで)が終わり、福祉元年(1973年)や公害問題といったことが議論されるようになり、それまでの日本社会の発展のあり方にさまざまな疑念が提起されつつあった時代だったと言える。やや冷めた見方をすれば、日本社会が残念ながらその後も従来型の成長モデルを追及し続けてきたこと(バブル崩壊を経験し、その後もなお「景気対策」を繰り返して財政赤字を累積させてきたこと)と、「ケア」というテーマが広い文脈において共有されるまでに時間がかかったことは、おそらくパラレルなことだったと言えるだろう。

 本題に戻ると、ここで言わんとすることは、「キュアからケアへ」という考え方は、通常思われているように単に医療の場面での「治療のみならず配慮や支援という対応が重要」という趣旨にとどまるものではなく、より普遍的な広がりをもっているということである。

 それは「自然とのかかわり」についても言える。自然というものを、先ほど「成長・拡大」期の発想として述べたように、単に利用するとかコントロールする、支配する、といった方向でのみとらえるのではなく、むしろそれとの何らかのつながりを回復することで人間自身が癒されたり、一定の持続可能な関係が実現できたりするという発想である。このように、「ケア」というテーマは、(一般には人間と人間の関係を中心に論じられることが多いけれども)「自然」とのかかわりについてもあてはまるものである。

 「成長・拡大」の時代は、人間と自然を切り離し、人間が自然資源を限りなく利用・搾取することで物質的生産を増大させ、その結果「成長」を遂げてきたわけだが、そうした関係を根本から再編していく成熟化ないし定常化の時代では、上記のような自然とのかかわりの見直しと平行して「ケア」というテーマが浮上する。

 そしてこうした文脈の中でも、前回述べた「サイエンスとケアの融合」あるいは「ケアとしての科学」という方向が浮上することになる。

 今回の原発事故とそれへの対応も踏まえながら、いま正面から問われるべきは「経済成長と科学」というテーマ、あるいは「経済成長に寄与するための科学」とは異なる科学の価値や方向づけ、という主題ではないだろうか。

 

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