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教科書だって疑ってかかれ―不確定性原理考

尾関章 科学ジャーナリスト

 科学記事の常套句に「教科書を塗りかえる」という言葉がある。ただ、常識を覆す、あるいは改めさせる、というだけではない。その常識に、学界の総意とでもいうべきものの後ろ盾があるときに、ぴったりの言葉だ。

 物理学では、この半年の間に「教科書を塗りかえる」と言いたくなるようなニュースが二つ発信された。

 一つは2011年9月、名古屋大などの日本人研究者を含む国際チームが、ジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究機関(CERN)の加速器を使って、ニュートリノという素粒子が光よりも速く地中を飛ぶのを観測したと発表したことだ。アインシュタインの特殊相対性理論(1905年)では、ものが超光速で動くことはありえない。特殊相対論の破れか、とも言われ、メディアでは大きく報じられた。

 もう一つが、今月、名古屋大学の小澤正直教授、ウィーン工科大学の長谷川祐司准教授たちが論文にしたハイゼンベルクの不確定性原理の検証だ。小澤さんは2003年、この原理を書き改めた「小澤の不等式」を提唱、今回は長谷川さんたちの実験がそれを支持した、というのである。

 理系の大学生が、学部で物理学を学ぶとき、特殊相対論も不確定性原理も、揺るぎのない基本理論として習う。これらに伴う数式は、教科書に刷り込まれている。まさに現代物理の「憲法」として受け入れられてきた。

 この二つのビッグニュースの受けとめ方は、専門家の間では大きく異なっている。

 前者については、論文を出した国際チームの研究者たちに敬意を表しつつ、「超光速ニュートリノ」には納得しない人が圧倒的だ。

 そこに「敬意」があったのは、論文の書き方が慎重で好意的に受けとめられたからだ。「拙速に結論を出したり物理的な解釈を試みたりするには潜在的な影響が大きすぎる」として、特殊相対論の破れを主張しなかった。実験をしたら信じがたい結果が得られた。だからそれを開示して世に問う、という姿勢だ。

 多くの物理学者は、いずれ今回のニュートリノ実験の落とし穴が見つかるか、精度の高い実験で「超光速」が否定されるかして決着をみるだろう、と様子見の構えだ。

 これに対して、不確定性原理の数式に疑義を唱えた小澤さんたちの仕事には、物理学界のなかにも、妙な「納得感」がある。俗な言葉で表現すれば、「そういえば、不確定性原理のことは、いい加減に理解してきたかもしれないな」という感じだろうか。

 小澤の不等式の最大のポイントは、量子力学が露わになる極微の世界の不確かさを、2系統にしっかり仕分けしたということだ。

 一つは、ハイゼンベルク自身が、ガンマ線顕微鏡というものをイメージして考えた測定の限界。短波長の光・電磁波では、ものの「位置」を細かく見てとれるが、ものの動きに影響を与えるので「運動量」の測定が甘くなる。長波長ならその逆が起こる、という話だ。

 もう一つは、量子力学本来の不確定さ。量子世界は波で表されるので、ものの位置には幅がつきものだ。観測をすると、ばらついた結果が得られる。

 これまでは、大学の講義や書物でも、この2系統を明快に区分けして語られることが少なかった。

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