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エネルギー安全保障と日米関係から見た原子力

寺岡伸章

寺岡伸章 寺岡伸章(日本原子力研究開発機構核物質管理科学技術推進部技術主席)

日本はエネルギー安全保障を強化するために、ウラン濃縮、再処理、MOX加工などの自主技術を確立するなかで米国の足枷から脱却しようとしてきた。原子力政策の自主性を獲得したかったのである。

 ところが、カーター政権が誕生すると、米国は1974年のインドの核実験で核拡散に脅威を抱き、機微技術移転の動きやプルトニウムを取り出す再処理に敏感になっていく。米国は1978年、法的拘束力のある二国間原子力協力協定に盛り込むべき条項が規定された「核不拡散法」を成立させる。米国の核不拡散政策に従わない国には原子力資機材や技術を提供しないというのである。

 このような米国の核不拡散政策の強化のなかで、1976年、米国が試運転直前の東海再処理施設を問題視し、日米再処理交渉を申し入れてくる。米国はプルトニウムを単体で抽出するのではなく、ウランとともに混合抽出するよう要求したが、日本は混合抽出法は技術的に確立されておらず、施設の改造にも膨大な費用と時間がかかるとして拒否する。両国とも主張を譲らないまま議論は平行線だったが、日本人の反米感情の高まりと政権の不安定化を懸念した米国が実質的に譲歩する形で決着する。核を保有しない国が米国からはじめて再処理を認められたのである。日本のエネルギー安全保障重視の議論が米国を寄り切ったのだった。

 二国間原子力協定の締結に当たって、

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