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終わりなき制度改革が教育の現場をダメにする

伊藤智義

伊藤智義 千葉大学大学院工学研究院教授

 文部科学省は、このところ、高校を3年未満で卒業できる早期卒業制度の導入国立大学の「1大学1法人」方式の改正と、矢継ぎ早に制度改革を打ち出してきている。昨年来議論になっている大学の秋入学と同様、グローバル化への対応だという。ただし、大きな教育制度の変更で、現場の混乱は必至だろう。

 私の所属している千葉大学では、高校2年生から受け入れる飛び入学制度を、いち早く平成10年度から始めており、14年の歴史を持っている。私も兼務教員として関わっており、良い面も悪い面も見てきている。問題なのは、制度上可能になった飛び入学が、他大学にほとんど広がっていない状況である。その理由を精査した上での方針なのか?唐突な印象は否めない。

 また、国立大学再編の報道は「何を今さら」の感がぬぐえない。文部科学省の平成15年の資料にもあるように、広域再編の動きはこれまでにもあった。象徴的だったのは、県を越えての群馬大学と埼玉大学の統合である。しかし、最終段階でご破算になった。その問題点は明らかになっているのだろうか?

 4月の国家戦略会議で、野田首相は「人材育成は我が国の成長のカギを握っており」「社会構造の変化を踏まえた教育システムの改革に果敢に取り組む」と述べた。もっともな発言に聞こえるかもしれない。しかし、教育システムというものは10年単位で考えるべきもので、時々刻々と変わる社会構造の変化に追従するものではないはずだ。

 これまでにも数々の制度改革が行われたが、ほとんど成果を上げていないように感じられる。例えば、アメリカをまねて導入された法科大学院制度では、当初の目的が達せられずに、先日のニュースによると、明治学院大学など3大学で学生の募集を停止するとのことである。

 本質的な問題は、教育に競争原理を導入したことである。短期的なものならば有効だったかもしれない。ただし、それが10年以上も続けられると現場は疲弊してしまう。5月5日付朝日新聞別刷「be」の「東大で続く有名教授流出」と題する記事が本質をついていた。昨年度で東大を去った芥川賞作家でフランス文学の松浦寿輝教授は次のように語っている。「無用な制度いじりはやめて、教師に十分な余裕を与え、教室で学生と知的で人間的な、中身の濃いコミュニケーションができる環境をつくって」「それができなければ、これからも東大から人がいなくなるでしょう」

 拙稿「秋入学への全面移行に反対する」(1月27日)でも述べた通り、私も全く同じ意見である。

 若者が次代を担うまでには10~20年を要する。したがって、今の日本の教育制度と、今の日本の国力は、直結しない。

 かつて、日本は「詰め込み教育」で独創的な研究は出てこないといわれていた時代があった。ところが、「ゆとり教育」に大きく舵を取った途端に、「詰め込み教育」世代からノーベル賞受賞者が続出した。自然科学分野(物理学、化学、医学・生理学)に限っていえば、21世紀に入ってから(2001年以降)は8人で、アメリカに次いで、イギリスとともに2番目の数である。

 1901年からの全体を見ても、自然科学分野のノーベル賞受賞者は、国別では日本は14人(南部陽一郎博士はアメリカ籍で含まず)で7番目である。戦後だけでいえば、アメリカ、イギリス、ドイツに次いで、フランスとともに4位である。

 あまり意識されていないかもしれないが、この数字は、アジア各国から羨望のまなざしを浴びるほどの、突出したものである。日本を除くアジアの国・地域の受賞数は、イスラエル4人、台湾2人、インド1人、パキスタン1人で、合計でも8人にとどまっている。

 日本が科学立国になり得た要因の一つに、最新の科学技術を母国語で習得できるからだという見解が、諸外国にあることも触れておこう。明治以降の先達のおかげで、私たちは、大学レベルの科学的基礎を母国語で理解できる環境にある。母国語が、もっとも深く思考できる言語であることは当然である。事実として、14人の日本人ノーベル賞受賞者(南部博士も加えれば15人)は、すべて日本の大学を卒業している。海外に拠点を移した人もいるが、それは、大学卒業以降のことである。

 大学の授業はすべて英語で行うべきとの議論もあるが、参考にして頂ければ幸いである。

 「グローバル」という言葉が、教育界では流行になっている。ただし、教育とは、「国際人」を育成する以前に、「人」を育てる場であるはずである。その一環として国際人の育成があるのなら構わないけれども、直近の「国力」に目を奪われた昨今の教育制度改革は、本質を外しているだけでなく、教育現場を無用に疲弊させているようで、心配である。

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