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ヒッグス粒子はなぜ「ヒッグス粒子」なのか

内村直之 科学ジャーナリスト、北海道大学客員教授

1964年、ちょうど日本が東京オリンピックの開催で騒がしかったころ、短いながらも後の研究者たちに大きな影響を与える論文が3グループから相次いで発表された。キーワードは「対称性の破れ」と「素粒子の質量」で、3グループはほぼ横並びに、いわゆる「ヒッグス・メカニズム」の提唱をした。物質に質量がなぜあるのか、という謎を解明する手がかりである。48年の後、スイス・ジュネーブ郊外の素粒子研究施設CERN(欧州合同原子核研究機関)の実験グループは、ヒッグス・メカニズムの証拠である可能性が高い新素粒子を発見したと大々的に発表した。その間の歴史の面白さを見る。

南部が「伝説の論文」で火を付け、後続へ励ましも

 1960年、英国エディンバラ大学で数理物理の講師(lecturer)となったピーター・ヒッグスは、翌年、南部陽一郎とジョバンニ・ヨナ=ラシニオの論文(2008年のノーベル物理学賞の授賞対象)に瞠目した。素粒子の構造を超伝導現象になぞらえ、いわゆる「自発的対称性の破れ」という現象が質量を生む原因だとする概念を提唱した伝説の論文である。

 しかし、南部の理論を発展させた英国ケンブリッジ大のゴールドストーンによれば、「自発的対称性の破れ」という現象があれば、質量ゼロの「粒子」=その後「南部・ゴールドストーン(NG)粒子」と名付けられた=が必ず登場しなければいけないが、実際には、そんな粒子は発見できなかった。ゴールドストーンの理論は数学的に確実なものだったから、どこに問題があるのか、世界中の物理学者が研究を始めた。ヒッグスもその一人だった。

 風穴を開けたのが、米国の物性物理理論家フィリップ・アンダーソン。やはり超伝導の理論を展開しながら、電磁気的現象がからまれば、NG粒子は質量を持つ粒子に変身すると看破した。ただ、物性物理は素粒子物理と違うはずと、素粒子屋は彼の結果を顧みなかった(彼は乱雑物性に関する業績で77年のノーベル物理学賞を受賞している)。

 64年7月、ヒッグスは、米国ハーバード大学の理論家ウォルター・ギルバートの書いた論文を見て文句を付けたくなった。NG粒子の難点を回避する方法というのだが、それではダメだとヒッグスは直感した(ちなみにギルバートは、ジェームズ・ワトソンの誘いで後に分子生物学に転向、遺伝子の塩基配列決定法の開発で1980年ノーベル化学賞を受けている)。

 ヒッグスは暖めていた内容を論文に書いて、CERNに編集部のある専門誌「フィジックス・レター」に投稿、さらにその続きを投稿しようとしたが、短いものでないと受け付けられないと拒否された。

 そこで、ヒッグスは、論文を書き直してアメリカ物理学会の速報誌「フィジカル・レビュー・レターズ」に投稿したが、ここで思わぬ返事を受け取った。論文を審査するレフェリーが「論文を受理したその日(8月31日)付けの本誌で、同様の内容の論文が出ている。それについてコメントを加えてほしい」というのである。エングラールとブラウト(ベルギー自由大学)が書いたものだった。ヒッグスはその論文を見ておらず、独立の仕事であることは確かである。彼は自分の論文の注で二人の論文に触れ、「(2種類の)スカラーとベクトルボース粒子の予言がここには含まれている」という一文を付け加えた 。これこそ、今回、発見された可能性のある「ヒッグス粒子」であったが、エングラールたちはこのことは強調していなかった(このあたりの経緯はヒッグスが2010年に講演した記録「My Life as a Boson」に詳しい)。

拡大南部陽一郎さん

 実は、このときのレフェリーはシカゴ大学にいた南部陽一郎であった。南部はエングラートたちの論文も審査していた。2005年11月に京都大基礎物理学研究所であった研究会で話した時、自分が審査したことを明らかにし

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筆者

内村直之

内村直之(うちむら・なおゆき) 科学ジャーナリスト、北海道大学客員教授

科学ジャーナリスト、北海道大学客員教授。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程満期退学。1981年、朝日新聞入社。福井、浦和支局を経て、科学部、西部本社社会部、科学朝日、朝日パソコン、メディカル朝日などで科学記者、編集者として勤務し、2012年4月からフリーランス。興味は、基礎科学全般、特に進化生物学、人類進化、分子生物学、素粒子物理、物性物理、数学などの最先端と科学研究発展の歴史に興味を持つ。著書に『われら以外の人類』(朝日選書)など。【2015年10月WEBRONZA退任】

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