2012年08月17日
4号機の脇を通り抜け、北にあるプリピャチ市に入った。
原発で働く人々のために1970年に作られた町である。ガイドのオクサナさんによると、86年当時の市の平均年齢は26歳、毎年1000人ずつ人口が増えていた。平均年収も他地域より高く、いわば誰もが羨む未来都市だった。事故の翌日、5万人の市民がソ連政府の用意した1200台のバスと3台の電車で避難した。「すぐに帰れる」と説明したため、「それなら避難したくない」と部屋から出なかった高齢者もいたが、軍人がくまなく見回り、見つけ出して退去させたという。
26年後の今は、文字通りのゴーストタウンだ。オクサナさんは、手にした事故前の写真をその場その場で見せて説明する。週末、若者が集ったカフェ。その奥は、プリピャチ川に面した船着き場。ここから船に乗ってキエフ市まで行けた。映画館、警察署、ホテル、市民ホール、スーパーマーケット。ソ連時代、普通の町には存在していなかった立派な建物が、今は荒れ果てた姿をさらす。遊園地もあった。観覧車は、ソ連にとって大事な祝日であるメーデーにオープン予定だった。ところが5月1日を目前にして全市民がいなくなったため、観覧車は一度も客を乗せることなく、そのまま捨て置かれている。
オクサナさんがマンホール脇のコケに線量計を近づける。どんどん値が上がる。毎時20マイクロシーベルト。水が集まるジメジメしたところはホットスポットなのだという。
再びバスに乗って向かったのは、原発敷地内の食堂。入るときは、全身測定器で自分の被ばく量をチェックする。といっても、ほんの数秒で測定が終わる簡便型だ。合格ランプがつくのを確認して、階段を上がると、そこはいわゆる社員食堂だった。メニューは一種類。しかし、ジュースにスープ、サラダ、メインディッシュ、デザートがついていて、普通の日本人だと食べきれない。
一息ついてから、バスで4号機の裏に行く。
今回のツアーでもっとも4号機に近づけた。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください