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[9]続々・チェルノブイリ報告

除染と移住政策の現実

高橋真理子 ジャーナリスト、元朝日新聞科学コーディネーター

チェルノブイリ原発事故の翌日に5万人のプリピャチ市民は全員避難した。しかし、これは原発城下町プリピャチ市だけの特例だった。それ以外の国民には、事故が起きたことさえいっさい知らされなかった。社会主義国ならではの情報統制。一方で、私有財産のない国なら、強制移住などの政策は進めやすかっただろうと想像できる。政治体制は、原発事故対策にどんな影響を及ぼしてきたのか。現地で聞いた話から、その姿がおぼろげながら見えてきた。
キエフ市にあるチェルノブイリ博物館。右に止まっているのは、86年の事故対応に使われた車両

 原発事故をソ連政府が隠し続けたことは知っていたが、その隠しぶりは想像以上だった。4月26日に事故が起き、ソ連共産党はこれが大変な事故だと認識した。だが、5月1日のメーデーの祭典実施を優先した。原発から100キロ余りしか離れていないキエフ市では、何も知らされていない市民たちが1日に屋外で盛大なパレードをした。その成功を見届けて避難指示を出したのだろう。ベラルーシ非常事態省によると、周辺地域の避難が始まったのは翌2日。プリピャチ市のように1日で全員避難というわけには行かず、避難し終わったのは9月だったという。

 共産党機関紙プラウダの一面に小さい記事が出たのは5月15日だった。原発で事故が起き、対策をしている、という素っ気ない内容だった。ちなみに朝日新聞は4月29日付け朝刊で「ソ連で原発事故か」と報じている。

チェルノブイリ博物館の内部。時計が示しているのは事故が起きた時間。真夜中の1時23分だった

 科学者たちは情報をもらさないという誓約書にサインさせられた。医師が患者に言うことも許されなかった。専門家たちは放射線の害について情報を持っていて、懸命に対策に取り組んだが、その内容を広く伝えることはいっさいできなかった。

 その実態を、

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