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生物学のセントラルドグマが揺らいだ

米本昌平

米本昌平 東京大学教養学部客員教授(科学史・科学論)

 2003年にヒトゲノムの解読が完了して以降、その生物学的機能を明らかにするために、大規模プロジェクトが組まれてきている。ENCODEと呼ばれる国際コンソーシアムがそれで、その中間報告が科学雑誌『ネイチャー』9月6日号に掲載された。さすがにこれだけ体系的にヒトゲノムの機能の解明に取り組むと、分子生物学の教科書の書き換えにつながりかねない、重要な兆候がいくつか浮かび上がってくる。

 ヒトゲノムの機能について百科事典を作成しようとする、このENCODE計画は、ともかく組織的な研究が必要であり、競合する有力な研究所や研究者をひとつの巨大なプロジェクトにまとめるのに多くのエネルギーが割かれてきた。実際には、32の研究機関、442人の研究者が、ヒトの147種のさまざまなタイプの細胞を対象にして、遺伝子のたんぱく質への発現、遺伝子をコードしないゲノム領域のRNAへの転写、DNAを保護しているクロマチンの状態、などについて1600件以上の実験を組み、これらの結果をコンピュータに入れて、さまざまな分析をしてきた。

 すでに、ゲノムの約1%に当たる狭義の「遺伝子」の領域に関しては、その構造や機能が明らかにされてきている。ただしこの結果、かつては約10万個と推定されたヒトの遺伝子は2万個であることがわかり、ヒトの複雑さを考えると、遺伝子数の少なさは謎であった。

 今回、残りの広大なゲノム領域を精査してみたところ、その80%は何らかの形で遺伝子の制御に関係していることが判明した。実際には、たんぱく質を直接コードしないゲノム領域から大量のRNAがつくられていることが明らかになったのに加え、推定50万~200万個のエンハンサーやプロモーターと呼ばれる遺伝子発現の調節にかかわる箇所が広く散在していることが判ってきた。これらが組み合わさって複雑な調節システムを形成し、遺伝子発現をコントロールしていると考えられ、この複雑さが、最終的に細胞の多様性を実現しているらしい。

 分子生物学においては、その成立期以来、遺伝情報は「DNA→RNA→たんぱく質」へと単線的に流れるとする「セントラルドグマ」が信じられてきた。だがヒトでは、機能不明とされてきた広大なゲノム領域から大量のRNAがつくられ、さらには遺伝子本体から遠く離れた位置に多数の調節因子が散在しており、これらがほかの遺伝子と複雑な調節ネットワークを形成しているらしい。こうなると、「DNAは生命の設計図」という、DNAがすべてを決めているような比喩はリアリティーを失ってしまう。

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筆者

米本昌平

米本昌平(よねもと・しょうへい) 東京大学教養学部客員教授(科学史・科学論)

東京大学教養学部客員教授。1946年、愛知県生まれ。京都大学理学部卒業後、三菱化成生命科学研究所室長、科学技術文明研究所長などを経て現職。専門は科学史・科学論。臓器移植からDNA技術、気候変動まで幅広く発言。著書に『地球環境問題とは何か』(岩波新書)、『バイオポリテイクス』(中公新書)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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