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「専門家」を疑うという科学的姿勢

須藤靖 東京大学教授(宇宙物理学)

 《僕はみなさんが専門家を、たまにどころか必ず疑ってかかるべきだということを、科学から学んで頂きたいと思います。事実、僕は科学をもっと別な言い方でも定義できます。科学とは専門家の無知を信じることです》

 これは20世紀を代表する物理学者の一人、リチャード・ファインマンが「科学とは何か」に述べた文章の一節である (『ファインマンさんベストエッセイ』 大貫昌子・江沢洋訳、岩波書店 2001)。

 イタリアのラクイラで2009年4月6日に発生したマグニチュード6.3の大地震は、その過去数ヶ月にわたる群発地震を受けた専門家会議が「安全宣言」を出した一週間後。その間違った判断が被害を広げたとして、関係した専門家7人が禁錮6年の有罪判決を言い渡された。

 この驚くべき判決に対して、世界中の科学者から次のような批判が噴出している。そもそも地震予知はほぼ不可能であるし、一般に確率的にしか結論できない事柄に対して厳しく責任を問うようになれば、専門家は口を閉ざす、あるいは最悪の予想しか述べなくなる。結果的にはそれによる社会的損失が実際に起こる被害を上回る。

 これらの意見は至極当然であり、私も同意する。一方で、これだけでは何の解決にもならないのもまた事実だ。「専門家」がさぼっていた、あるいは真剣に検討しなかったなどの理由で、本来は十分可能であった適切な科学的判断を下せなかったのではないかという不信感こそ、今回の判決が下された背景なのではあるまいか。

 専門家が最善を尽くして下した科学的判断に対して、司法が刑事的責任を問うたとは私には信じられない。ただ誤解しないで頂きたいのであるが、決してその不信感が正当だと言っているわけではない。だからこそ、科学者コミュニティーが一般論として科学と刑事責任の関係を批判するだけでなく、今回の具体的な判断の正当性を科学的に検証して示すことこそ本質だ。

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