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いじめをなくす「シチズンシップ教育」が必要だ

秋山仁 数学者、東京理科大特任副学長

滋賀県大津市立中の2年男子生徒の自殺(昨年10月)について、滋賀県警が同級生2人を暴行容疑で書類送検したというニュースが28日朝刊に掲載された。今年、いじめ問題に再び大きな社会的関心を向けさせることになった事件に、一つの区切りはついたことになるが、警察はあくまで暴行の容疑であって少年の死亡と長期に亘るいじめとの因果関係は来年1月に提出される第三者調査委員会の報告を待たなければならない。このほかにも「いじめが原因?都内の私立女子中学生が小田急線で飛び込み自殺」、「神奈川県相模原市の長期的ないじめから発展した暴行傷害で加害少年たちを逮捕」と、いじめ関連の報道が12月に入っても続いた。「いじめ」が年越しの日本の課題のひとつであることは明らかなようだ。

 今年は、いじめが事件化した学校や教育委員会が開いた会見を目にすることが多々あった。会見の一部始終を見ているわけではないが、その様子に違和感を覚えることが少なくなかった。適切な比較ではないかもしれないが、上野動物園の赤ちゃんパンダの死亡を報告した動物園長の会見は、発せられる言葉や表情等から、結果的に何らかのミスはあったのかもしれないが、担当者たちも園長も愛情を持って一生懸命取り組んでいたのに起きてしまったのだなと感じさせるものだった。それに比して、違和感を覚えた会見は、教育関係者は概して無表情で、緊張して強張った姿で、そこからは失った(或いは傷つき弱ってしまった)生徒への愛情や思いやりよりも、まず第一に自分たちの身を守ろうとする気持ちしか伝わってこなかった。そのうえ、「いじめはなかった」とか「学校としては分らない」「いじめはあったが、そのいじめと自殺との因果関係は分らない」と断定的に語るのも、教育に携わる人というより法律家のようで、「学校として、これ以上やることはありません。(できることはありません)」と言わんばかりの姿勢は、教育に対する責務を放棄しているようにしか思えなかった。

 たとえば、生徒の自殺という最悪の事態が起きた学校や教育委員会が、それを防げなかった先生たちの未来を慮って事件に蓋をして終わらせようとするというのであれば、それは逆に彼らの未来のためにも、社会のためにもならないと思う。子どもたちへの教育の責務を担っているのであれば、加害少年たちや関わった先生たちの心の中を十分に聞き出して、彼らに心の痛みや後ろめたさがあるのなら、その感情を正しい方向に向けて生きていけるように力を貸す必要がある。また、彼らに罪悪感が無いというのなら、必要あれば、法的な諸機関の力も借りて、どれだけのことをしたのか、どうすべきであったのかを自覚させ、そのままのモラルで生きていくことをこの社会は許さないよと、相応の処罰や矯正教育を受けさせるようにするのが、教育機関としての役割だろう。

 また、日本の学校では、「被害者が転校することで学校としてはいじめを解決したことにする」のも珍しくはないようだが、加害者への指導も、学校としての反省や改善もなく、そんな対応を多数の生徒たちに見せること自体、間違ったことを教える悪い教育だと感じる。生徒は物ではなく人間だ。「いじめはないもの」として学校を運営しようというのは、学校側が実際の子どもたちと向き合おうとせずに、都合よく考えたマニュアル化業務で教育という仕事を済ませようとしているように思えてしまうのだ。

 いじめを特集した

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