秋山仁(あきやま・じん) 数学者、東京理科大特任副学長
1969年東京理科大学応用数学科卒、72年上智大学大学院修了。日本医科大助教授などを経て82年から東海大学教授、2012年から東京理科大理数教育研究センター長。駿台予備校でも長年教えた。著書に「離散幾何学フロンティア」「教育羅針盤」「数学ワンダーランドへの一日冒険旅行」など。専門は離散幾何学。趣味はアコーディオン演奏、ヨット
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
今年は、いじめが事件化した学校や教育委員会が開いた会見を目にすることが多々あった。会見の一部始終を見ているわけではないが、その様子に違和感を覚えることが少なくなかった。適切な比較ではないかもしれないが、上野動物園の赤ちゃんパンダの死亡を報告した動物園長の会見は、発せられる言葉や表情等から、結果的に何らかのミスはあったのかもしれないが、担当者たちも園長も愛情を持って一生懸命取り組んでいたのに起きてしまったのだなと感じさせるものだった。それに比して、違和感を覚えた会見は、教育関係者は概して無表情で、緊張して強張った姿で、そこからは失った(或いは傷つき弱ってしまった)生徒への愛情や思いやりよりも、まず第一に自分たちの身を守ろうとする気持ちしか伝わってこなかった。そのうえ、「いじめはなかった」とか「学校としては分らない」「いじめはあったが、そのいじめと自殺との因果関係は分らない」と断定的に語るのも、教育に携わる人というより法律家のようで、「学校として、これ以上やることはありません。(できることはありません)」と言わんばかりの姿勢は、教育に対する責務を放棄しているようにしか思えなかった。
たとえば、生徒の自殺という最悪の事態が起きた学校や教育委員会が、それを防げなかった先生たちの未来を慮って事件に蓋をして終わらせようとするというのであれば、それは逆に彼らの未来のためにも、社会のためにもならないと思う。子どもたちへの教育の責務を担っているのであれば、加害少年たちや関わった先生たちの心の中を十分に聞き出して、彼らに心の痛みや後ろめたさがあるのなら、その感情を正しい方向に向けて生きていけるように力を貸す必要がある。また、彼らに罪悪感が無いというのなら、必要あれば、法的な諸機関の力も借りて、どれだけのことをしたのか、どうすべきであったのかを自覚させ、そのままのモラルで生きていくことをこの社会は許さないよと、相応の処罰や矯正教育を受けさせるようにするのが、教育機関としての役割だろう。
また、日本の学校では、「被害者が転校することで学校としてはいじめを解決したことにする」のも珍しくはないようだが、加害者への指導も、学校としての反省や改善もなく、そんな対応を多数の生徒たちに見せること自体、間違ったことを教える悪い教育だと感じる。生徒は物ではなく人間だ。「いじめはないもの」として学校を運営しようというのは、学校側が実際の子どもたちと向き合おうとせずに、都合よく考えたマニュアル化業務で教育という仕事を済ませようとしているように思えてしまうのだ。
いじめを特集した
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