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続:「アリバイ」と「見せ玉(ぎょく)」が日本文化のカギだった

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

アリバイと見せ玉の文化は、原因と責任を徹底追及しない、曖昧(あいまい)にぼかす文化でもある。どうもこれが日本人の心性にマッチしているらしい。

 大きな事故があったとき、究極的に原因を何かひとつに帰することができるとは、国民の多くは腹の底では思っていない。また責任者(加害者)として追及される者がいたとしても、「たまたま巡り合わせが悪かった、むしろ被害者」と見る心理が多少なりとも働いていている。因果応報、輪廻転生という東洋思想と、どこか深い所でつながっているかも知れない。

2012年12月4日、笹子トンネル事故の家宅捜索のため中日本高速道路本社に入る山梨県警の捜査員たち=川津陽一撮影

 しかし「そうは言っても、どこかに原因を求め、誰かに責任を取らせないと、先に進めない」。これまた皆の実感で、手続きさえ踏んで集団の和さえ取り戻せたら、それ以上追及せずに先へ進もうとする心性につながっていく。それはそれで物事が滑らかに進むが、肝心の事故の原因そのものは事実上放置されることになる。

 たとえば、関越自動車道高速バスの居眠り運転事故(昨年4月29日)や、中央高速笹子トンネルの天井板崩落事故(昨年12月2日)はどうだろう。最近は続報も見ないが、その後どうなったのか。 「原因調査」「加害者の適正処罰」といったアリバイと「安全対策」の見せ玉でもって、段取りよく元の鞘(さや)に納まるに違いない。そして数年後にまた犠牲者が出るまで、忘れ去られる。

 このように言うと、「経済原則を無視して、運転手をすべて二人にしろというのか。天井板を全部取り換えろというのか 。非現実的だ」という声が聞こえそうだ。

 だがここで筆者が主張したいことは、それとほとんど真逆だ。むしろ現実を直視しろ、と言いたい。

 経済原則から現実には100%の安全はあり得ない。それならそれでいい。ただ

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