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不思議の国ニッポン、日本的集団主義の病理

吉田文和 愛知学院大学経済学部教授(環境経済学)

・地震国に全国くまなく54基の原発を建設運転。

・原発事故が起きてもパニックにならない。

・原発ゼロを望む世論が7割でも、選挙では自民党が選ばれ、原発の再稼働と新設まで言及。

・福島原発事故が起きても、原発を止められない。

・巨額の国家財政赤字を抱えても、国債増発で公共事業を止めない。

 これらは日本社会に深く根差す問題から発生したものであり、日本的集団主義のもたらした結果ともいえる。島国であるという地理的な特性にも支えられた共同体で、意思決定の根拠と責任所在の不明確さ、理念と現実との乖離、異端者の排除、一度決めたら止められない、集団的錯誤という問題群である。近代化されたハイテク国家日本という表層にもかかわらず、明治維新から続く日本社会の病理である。日本の目標が欧米に追い付け、追い越せという場合には、日本的集団主義が効果を発揮し、高度経済成長を支えたのである。この目標が喪失し、かつ高度成長を支えた人口構成の変化や高度成長の結果の後始末が噴出して(原発事故もその1つ)、かつ中国、韓国からの追い上げにあって、行き詰まり、民主党政権が誕生したが、対応した改革をできないままに終わった。

 勝利した自民党の選挙スローガン「日本を取り戻す」は、日本的集団主義のもたらした諸問題とその帰結には目をつぶり、「日本的なるもの」への復古懐古を目指したものである。

 憲法改正、国防軍創出、教育制度の改正など、統制強化と対外的に強硬姿勢を見せても、基本的な問題への反省と改革はなく、ますます矛盾は深まるばかりである。今、教育で問題となっている、イジメや体罰もすべて、個人の人権を軽視した日本的集団主義に伴う問題であることは、いうまでもない。この問題を回避して、統制を強化してもイジメ、体罰問題が解決されないことは明かである。

 ヨーロッパの中でも、日本に比較的親近感をもつドイツは、福島原発事故について、「高度に組織されたハイテク国家日本」で起きたことを重視し、ドイツでも原発事故は起こりうると考えた。さらに、福島の原発事故で、日本の住民がパニックにならず、互いに助け合い、場合によっては、自らの命を犠牲にしてまで他の人々の命を救う日本人を賞賛したのである。しかし、最近では、福島の事故にあっても、なぜ日本が脱原発を決められないのか、いぶかしがる意見も出ている。考えてみると、ドイツ人の日本社会へのこれらの意見は、冒頭に掲げた問題群に関わるものであり、日本的集団主義に起因するものであるといえる。自己犠牲も、パニックにならないのも、子供のころからの教育訓練の賜物である。

 保守派の中でも、日本民族の行く末を本当に心配するならば、当然、原子力をこのまま続けていくことにはならないはずである。そこで、脱原発を目指す保守派の論陣の流れも生まれている。ドイツの保守党、キリスト教民主同盟のなかでも、脱原発は、はじめ少数派であったが、トプファー環境大臣などが与党内の脱原発派を増やす努力を重ね、キリスト教会もカトリック、プロテスタントともに、原子力に厳しい態度をとったことも、重要である。日本の保守党や宗教界に、こうした流れがまだ本格化していないのは残念である。

 原発エネルギー問題も含め、いまの制度は、戦後の保守政治のもとで、政府・官僚・財界の一体体制でつくりあげられてきたものであり、簡単には変革できないことは明かである。そのどこに問題があり、どうように改革すべきは、まさに「万機公論に決すべし」である。日本の原子力推進体制は、「原子力ムラ」といわれてきた。これも日本的集団主義の産物である。日本的集団主義の問題点は、結果が出ても訂正と見直しのシステムが機能しないことである。その点で、「責任ある保守」であれば、これまでの失敗を真摯に反省し、改革に取り組むべきである。新政権は「原発ゼロ」も「温室効果ガス25%削減」も無「責任」であるとしているが、「責任」とは、結果と説明に対する責任であり、誰に対する何の責任かを明確にしなければならないであろう。

 『ニューヨーク・タイムズ』紙は、新年早々の社説「日本の歴史を否定する新たな試み」(2013年1月2日付)と題して、村山談話と河野談話を見直すという新首相の「恥ずべき要求」を厳しく批判して、アメリカ高官も歴史見直しに慎重であるべきだと日本側に伝えたと報道されている。

 先稿で、日本は、「外圧と人柱」がなければ変わらないと述べた。この2つがなければ、内部変革ができないとすれば、それはあまりに悲しいことであり、進歩がない。また「外圧」といっても、アメリカのみならず、肝心のアジアの国々からの圧力と期待がある。アメリカの外圧も、原子力を続けろという圧力もあれば、プルトニウム核燃料サイクルを重視する利害関係者も多い。「人柱」も、これまで社会的弱者、生物的弱者、そして海外の犠牲が多すぎた。

 第2次世界大戦の敗戦は「国破れて山河あり」といわれた。しかし「第2の敗戦」といわれた福島原発事故では、いまなお、16万人が避難生活を送り、「国破れて山河」もなくなる危険があるところが、事態の深刻さを示している。

 最近の経験をよく思い起こす必要がある。1985年のプラザ合意を受けて、内需拡大の掛け声のもと、金融緩和とリゾート法を成立させ、産官一体となった開発バブルが起こり、環境破壊と金融機関と自治体に甚大な被害をもたらした。いまだにその爪痕が残っている。山一証券や北海道拓殖銀行(当時)が破綻した。これを見れば、金融緩和と復興バブルの帰結は、ある程度予想できるものである。

 現在のデフレといわれる現象の原因は、1990年代の社会主義体制崩壊のあと、まず中国やロシア、インド、ブラジルなどのBRICks諸国の資本主義進展で低賃金と低価格資源による低価格品が世界市場に出回り、他方で競争により劣位になった先進資本主義国の低中間層の購買力が落ちて、物価が思うように上がらないという現象が生じたことである。勝利したはずの資本主義に敗者の国が転換して、敗者が勝者に競争で優位に立つという事態が生じたのは、歴史の皮肉である。長期的に見れば、中国や新興国の勤労者の労働生活条件の改善と環境保全を進めることは、安価な製品が世界に出回り、他国を脅かすのを減らすことになるのである。

 他方で新興国の資源需要増加により、資源エネルギー、食糧価格はデフレどころか、インフレ傾向がでており、ガソリンや灯油価格、そして電力価格の動向を見ればそれを実感でき、日本の貿易収支も歴史的な赤字を記録している。先進資本主義国に資金はすでに十分あるが、購買力が不足し、かつ新しい投資と需要の展望がないところが一番の問題なのである。そこで持続可能な社会の基礎をつくるために、例えば、ドイツの「エネルギー大転換」というような官民挙げての将来を見越したプロジェクトや、少子高齢化への取組が日本の状況に合わせて必要なのである。そこにこそ、イノベーションが必要なのである。この問題をまず解決しなければならないのに、一層の金融緩和を行えば、また悪性バブルが起きかねない。木に登って水を求めても、落下の危険があるだけである。

 「アベノミクス」に浮かれているわけにはいかないのである。

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筆者

吉田文和

吉田文和(よしだ・ふみかず) 愛知学院大学経済学部教授(環境経済学)

1950年生まれ、兵庫県出身、京都大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。北海道大学大学院経済学研究科教授を経て2015年から現職。北大名誉教授。専門は、環境経済学、産業技術論、主著『ハイテク汚染』岩波新書、『環境経済学講義』岩波書店、最近は低炭素経済と再生可能エネルギーの普及に関心を持つ。札幌郊外の野幌原始林の近くに住み、自然観察と散歩を趣味とする。

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