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[2]グローバル再考

広井良典 京都大学こころの未来研究センター教授(公共政策・科学哲学)

 さて、では以上のような人類史についての把握と「地球倫理」との関係はどうか。

 結論から言えば、今という時代は、ここ200~300年の間に展開してきた産業化(工業化)文明がある種の根本的な限界あるいは資源・環境制約に直面しつつある時代であり、言い換えれば私たちは人間の歴史の中での「三度目の定常期」を迎えようとしている。そしてちょうど狩猟採集社会と農耕社会の成熟・定常期において、それぞれ「自然信仰」及び「普遍宗教(普遍思想)」が生成したのと同じように、新たな価値原理ないし思想が求められている。それに相当するのが、ここでの「地球倫理」ということになる(〈表1〉参照)。 

(表1)人類史における3度の定常期と思想の生成

 (表1)の右欄にも示すように、これら3つに共通するのは、拡大・成長期にあったような外的あるいは功利的(物質的)価値を超えた、何らかの意味での内的あるいは精神的価値の創造という点である。

では「地球倫理」の内容はどのようなものとなるのか。

 この点を考えていくには、地球倫理を、枢軸時代/精神革命期に生じた普遍宗教(普遍思想)と対比して見ていくのが有効であり、その概要を示したのが(表2)である。

(表2)普遍宗教と地球倫理の対比

ローカル・グローバル・ユニバーサル
 (表2)を手がかりに議論を進めよう。最初の「時代背景」は先ほど述べたとおりであり、次の「性格」であるが、枢軸時代に生成した普遍宗教が、その呼称が示すとおり、個々の共同体や民族等を超えた、人類に共通する「普遍的」な価値や原理を志向し追求したという点は先ほど言及した。

 この場合、「ユニバーサルuniversal」という語が「普遍的」という意味とともに「宇宙的」という意味をもつのは象徴的である。枢軸時代の思想群が追求したのは、仏教にしてもユダヤ・キリスト教にしても儒教や老荘思想にしてもギリシャ哲学・思想にしても、その視角や関心の力点は異なるにしても、いわば「宇宙/世界における人間の位置」ともいうべきテーマだったと言えるだろう。

 これに対して、地球倫理で重要となるのは、さしあたり「ユニバーサル」との対比で見れば「グローバル」ということになる。

 しかし重要な点だが、地球倫理の意味としての「グローバル」は、次のような意味で通常の「グローバル」ないし「グローバリゼーション」とは大きく異なっている。

 すなわち、通常「グローバリゼーション」と言うと、それは「マクドナルド化」とほぼ同義であり、つまり世界が一つの方向に向けて(とりわけ、市場化というベクトルを軸にして)均質化し、地球上の各地域の風土的な多様性や文化的な個性が背景に退き、失われていくような方向を指しているだろう。

 しかし本来の、あるいは望ましい意味の「グローバル」は、それとは根本的に異なるのではないだろうか。このことは、さきほどの「ユニバーサル」と「グローバル」を対比させ、さらに「ローカル」という言葉を視野に入れて次のように考えると見えてくることだ。

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