2013年03月04日
結論から言えば、今という時代は、ここ200~300年の間に展開してきた産業化(工業化)文明がある種の根本的な限界あるいは資源・環境制約に直面しつつある時代であり、言い換えれば私たちは人間の歴史の中での「三度目の定常期」を迎えようとしている。そしてちょうど狩猟採集社会と農耕社会の成熟・定常期において、それぞれ「自然信仰」及び「普遍宗教(普遍思想)」が生成したのと同じように、新たな価値原理ないし思想が求められている。それに相当するのが、ここでの「地球倫理」ということになる(〈表1〉参照)。
(表1)の右欄にも示すように、これら3つに共通するのは、拡大・成長期にあったような外的あるいは功利的(物質的)価値を超えた、何らかの意味での内的あるいは精神的価値の創造という点である。
では「地球倫理」の内容はどのようなものとなるのか。
この点を考えていくには、地球倫理を、枢軸時代/精神革命期に生じた普遍宗教(普遍思想)と対比して見ていくのが有効であり、その概要を示したのが(表2)である。
ローカル・グローバル・ユニバーサル
(表2)を手がかりに議論を進めよう。最初の「時代背景」は先ほど述べたとおりであり、次の「性格」であるが、枢軸時代に生成した普遍宗教が、その呼称が示すとおり、個々の共同体や民族等を超えた、人類に共通する「普遍的」な価値や原理を志向し追求したという点は先ほど言及した。
この場合、「ユニバーサルuniversal」という語が「普遍的」という意味とともに「宇宙的」という意味をもつのは象徴的である。枢軸時代の思想群が追求したのは、仏教にしてもユダヤ・キリスト教にしても儒教や老荘思想にしてもギリシャ哲学・思想にしても、その視角や関心の力点は異なるにしても、いわば「宇宙/世界における人間の位置」ともいうべきテーマだったと言えるだろう。
これに対して、地球倫理で重要となるのは、さしあたり「ユニバーサル」との対比で見れば「グローバル」ということになる。
しかし重要な点だが、地球倫理の意味としての「グローバル」は、次のような意味で通常の「グローバル」ないし「グローバリゼーション」とは大きく異なっている。
すなわち、通常「グローバリゼーション」と言うと、それは「マクドナルド化」とほぼ同義であり、つまり世界が一つの方向に向けて(とりわけ、市場化というベクトルを軸にして)均質化し、地球上の各地域の風土的な多様性や文化的な個性が背景に退き、失われていくような方向を指しているだろう。
しかし本来の、あるいは望ましい意味の「グローバル」は、それとは根本的に異なるのではないだろうか。このことは、さきほどの「ユニバーサル」と「グローバル」を対比させ、さらに「ローカル」という言葉を視野に入れて次のように考えると見えてくることだ。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください