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思想・宗教の風土依存性とその自覚
 「地球倫理」について、それが地球を一つの方向に均質化していくものではなく、むしろ地球上の各地域の風土的多様性を積極的に評価していくものであるという議論を行ったが、これは枢軸時代に生まれた様々な普遍宗教ないし普遍思想が、そうした発想を十分にもたなかったこととの対比においてである。

 枢軸時代に生まれた思想群は、先にもふれたように、自らの思想が「普遍的」であることを志向した。それは、それまでの時代に存在した様々な考えや価値が、特定の民族や共同体の枠内にとどまっていることの限界や狭隘さを自覚し、そうした個々の共同体を超えた普遍的な原理を求める中で生じたことであり、そのこと自体は積極的にとらえてよいことである。 

 しかしここで次のような素朴な疑問が生まれる。一つは、それではもしそうした自らを「普遍的」と考える思想が、同じく「普遍性」を名乗る別の思想と出会ったらどうなるか、その両者の「共存」は可能かという点である。これは「複数の普遍性」あるいは「多様な普遍性」は可能か、という問いとも言い換えられるだろう。

 いま一つは、実はそうした普遍宗教ないし普遍思想といえども、何らかの意味でそれが生成した地域ないし環境の影響を受けており、真の意味で普遍的とは言えないのではないかという点である。

 以前の著書である程度論じたことがあるので(広井〈2009〉)、議論をやや急ぐことになるが、実は枢軸時代に生成した思想群は、それぞれが生まれた地域の環境ないし風土、あるいはそこから派生する人間と自然の関係性や共同体間の関係性を反映する形でその世界観が構成されていた。

 たとえば、やや単純化した言い方になるが、ユダヤ・キリスト教の世界観は、砂漠ないしそれに類する環境において、基本的に人間と自然が対立的な関係にあり――砂漠において「自然と一体になる」ことは死を意味する――、したがって人間と自然の間に明確な一線が引かれ、その上で「超越的な人格神-人間-自然」というピラミッド的構造が観念されるということと密接に関連しているだろう。逆に、降水量に恵まれ、森林におおわれているような環境においては、むしろ人間を包み込むような自然=生命=宇宙といった観念が生まれ、自然や宇宙との一体性を志向するような、異なる自然観や世界観が形成されるだろう(仏教はこれに近い)。

 このように、思想や信仰、宗教の内容は、その基盤にある人間観や生命観とともに、それが生成した風土的環境と深く結びついている。 ・・・ログインして読む
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筆者

広井良典

広井良典(ひろい・よしのり) 京都大学こころの未来研究センター教授(公共政策・科学哲学)

1961年生まれ。84年東京大学教養学部卒業(科学史・科学哲学専攻)。厚生省勤務、千葉大学法政経学部教授を経て現職。この間、マサチューセッツ工科大学客員研究員。社会保障、医療、環境などをめぐる政策研究からケア、死生観などについての哲学的考察まで幅広く発信。『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)で第9回大佛次郎論壇賞を受賞した。

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