広井良典(ひろい・よしのり) 京都大学こころの未来研究センター教授(公共政策・科学哲学)
1961年生まれ。84年東京大学教養学部卒業(科学史・科学哲学専攻)。厚生省勤務、千葉大学法政経学部教授を経て現職。この間、マサチューセッツ工科大学客員研究員。社会保障、医療、環境などをめぐる政策研究からケア、死生観などについての哲学的考察まで幅広く発信。『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)で第9回大佛次郎論壇賞を受賞した。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
そのように、依然として従来の高度成長の延長線上でしか「豊かさ」をとらえたり今後の社会を構想したりすることができない人々あるいは世代の、最後の喧騒が最近の一連の現象ではないか。
4月に『人口減少社会という希望』という本を刊行することになったが、それはそうした「アベノミクス的な世界観」とは全く逆のビジョンを提示するものでもある。
「経済成長がすべてを解決する」という発想
大きく振り返れば、歴代の自民党政権は90年代には「公共事業」によって、2000年代の小泉政権では「規制緩和」によって景気回復を図ろうとしてきた。それがいずれも機能せず、今回は「貨幣の量を増やす」という危険な奥の手まで含めて成長を目論んでいる。
もちろん、それによって実質的な経済成長が実現していくならば結構なのだが、ここ20年来の経緯や、そもそもこれだけモノがあふれる時代にかつてのような成長が望めるかという点を踏まえると、安倍首相のビジョンには根本的な疑問が残る。
つまり、私たちはそろそろ「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という発想から抜け出していくべきではないか。増税がずっと先送りされ、その結果、1000兆円に及ぶ借金とともにツケがすべて将来世代に回されてきたのも、すべてこの「成長による解決」という高度成長時代の発想に由来する。
私は問いたい。そうした責任、特に若い世代や未来世代への責任はいったい誰が、どのようにとることになっているのかと。
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