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科学を改憲のダシに使うな

尾関章 科学ジャーナリスト

 科学記者がどうして憲法問題を、と思われるかもしれない。だが、私にはこの10年余、いつも気にかかっていることがある。それは近年、タブーでなくなった改憲論議のなかで、科学をめぐる問題が憲法改定のダシに使われているのではないか、ということだ。

 真っ先に思い浮かぶのは環境権を盛り込むという主張だ。この権利の根っこには当然、動植物の生態学や地球科学がある。プライバシーの権利を明文化しようという意見もよく聞く。個人情報の保護を求める声はIT(情報技術)社会の発展とともに高まっているのだから、これも科学技術と深くかかわっている。そして、もう一つ、生命倫理条項を設けようという改憲論もある。

 これらは、改憲のねらいは憲法9条を書きかえることだけにあるのではない、という文脈のなかで出てくることが多い。「右寄り」と呼ばれることをよしとしない人たちが改憲を正当化するときにもちだす議論でもある。ただ私の印象では、そこに科学技術に対する深い思慮があるとは思えない。

 ここでは、科学関連テーマのなかで生命倫理のことを考えてみよう。なぜならそれが、もっとも科学の本質を反映していると思われるからだ。

 生命倫理は、生命科学の急進展とともに1980年代ごろから世間の関心事となった。人の死とは何かを問う脳死臓器移植、自分の健康リスクについての「知る権利」や「知らないでいる権利」「知られたくない権利」とかかわる遺伝子治療、人が人の遺伝子をどこまで操作してよいかという問題をはらむ遺伝子治療、生命の選択や「クローン人間」の可能性と隣り合わせの生殖医療……。こうした医療技術が広まるなかで、いくつかの改憲試案が生命倫理をめぐる条文を盛り込もうとしている。

 国会図書館政治議会課憲法室が2005年にまとめた報告書によると、生命倫理規定を加えるとしたものに読売新聞社や鳩山由紀夫氏の試案がある。自民党や公明党などの試案でも、この規定を備えることが検討項目の一つになっている。

 生命倫理に憲法が踏み込むことは、科学という知の営みに国が介入することでもある。研究の自由を侵すことにならないかという懸念は当然出てくるだろう。

 だが、それだけではない。私はここで、生命倫理とは最先端科学に直面した人間社会のあり方を探る営みであり、だからこそ、その多くは常識としてまだ定着していない、ということを言いたい。 ・・・ログインして読む
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筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。1週1冊のブログ「本読みby chance」を開設中。

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