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ダイオウイカとキュリオシティ ~「未知なるもの」を追い求めるということ~

武村政春 東京理科大学准教授(生物教育学・分子生物学)

 本年1月に、NHKスペシャルでダイオウイカが取り上げられたのはまだ記憶に新しい。ダイオウイカの研究者として世界的に有名な国立科学博物館の窪寺恒己博士の活躍と共に、その番組は、「世界初撮影! 深海の超巨大イカ」というタイトルで人々の「未知なるもの」への好奇心を、大いにゆさぶり、揺れ動かしたのだった。NHKのウェブサイトを見ると、5月2日の未明に再放送されたらしいから、ご覧になった方もおられよう。

 ダイオウイカと言えば昔から、マッコウクジラのどでかい"鼻先"に抱擁するかのようにその複数の長いアシを絡みつかせ、闘っているシーンが幾多の絵師たちによって描かれてきた。

 一説には、北欧で言い伝えられてきた怪物「クラーケン」は、じつはダイオウイカだったというが、ボルヘスほか著『幻獣辞典』(柳瀬尚紀訳、晶文社)によれば、その巨大さはダイオウイカの比ではない。ボルヘスらは、「クラーケンの背は横幅一マイル半で、その触手でどんな大きな船でも抱き込んでしまう。巨大な背は島さながらに海上にはみ出ている」といい、そして「この記述から、クラーケンは蛸を巨大にしたものだという説が生まれた」と述べている。「この記述」というのは、ボルヘスらがこの本の中で引用している『ノルウェー博物誌』という18世紀中ごろに出版された本の中での記述だ。

 タコかイカか、そんなことは大きな問題ではない。「頭足類」とひとくくりにされるこれらの軟体動物たちは、高度な知能を持つと考えられているが故に、人々の畏敬の対象となってきたという側面もあるわけだが、要するに巨大なタコ、あるいは巨大なイカという字句の中に含まれるのは、そうした人々の思いであるということが重要なのだ。

 考えてみれば、巨大な生物に対して畏怖の念を抱いていたのは西洋人ばかりではない。私たち日本人もそうだった。

 江戸時代の絵師竹原春泉の『絵本百物語――桃山人夜話』という本に「赤えいの魚(うお)」というエピソードがある。安房国(千葉県)の船頭がある時大嵐に遭遇し、とある島にたどりついたところ、じつはそれは巨大な赤えいであって、再び船に戻ってこぎ出したところ、しばらくしてその「島」が巨大な渦を巻きながら海中深く沈んでしまったという。

 ダイオウイカは、わが青き地球に住まう「未知なるもの」であったが、好奇心あったればこその私たち人間は、なんと自分の住んでいるこの地球以外の惑星にも、「未知なるもの」の足跡を見つけようとしている。

  アメリカ航空宇宙局(NASA)が打ち上げた火星探査機「キュリオシティ」が、9ヶ月あまりの宇宙旅行の末、2012年8月、火星に着陸した。そして2013年3月、キュリオシティは火星の岩石を採取することに成功し、そこに"生命の痕跡"を発見したのだった。

  もちろんそれは、本当の意味での生命の"痕跡"ではない。見つかったのは、「生命に必須な6つの元素」であり、正確に言えばキュリオシティが発見したのは、火星の岩石に水素(H)、酸素(O)、炭素(C)、窒素(N)、リン(P)、硫黄(S)という六種類の元素が含まれていたという事実、である。

  そして、おそらくは多くの火星生物ファンにとって小躍りするほど嬉しく重要だったであろうことは、これらの元素はどれも、地球上の生物が生きるのに必須とされている元素であった、ということだろう。肯定的に考えれば、火星にも生物がいる(いた)という可能性が高まったということだが、残念ながら、生物がいる(いた)決定的な証拠にはならない。

  しかし、「未知なるもの」の探究に命をかける科学者たちは、火星には地球のような濃い大気がないため地表に紫外線が大量に降り注ぐということに注目することを忘れなかった。火星の生物が地下にいる可能性を考えたのだ。欧州宇宙機関(ESA)とロシア連邦宇宙庁は、火星の地下を2メートルまで掘って(たったそれだけ?とは思ったけれど)、微生物などを探そうという本格的なプロジェクトに乗り出したという。もちろんNASAも負けてはいまい。

  このように、地球の"お隣さん"である火星に「未知なるもの」を見つけ出そうとする熱意は、じつに世界中の多くの科学者の中でふつふつと湧き上がっているわけだが、その熱意はいったいどこから来るのだろうと、ある時ふと思った。

  そして、10行ほど上で、私は思わず「残念ながら」とワープロで打ち込んでしまったが、なぜ「残念ながら」なのか、なぜ私は何のためらいもなく「残念ながら」と打ち込んでしまったのだろうと、これは「ある時」ではなく、たった今、ふと思った。なぜ人間は、「未知なるもの」を追い求めるのか? なぜ人間は、「未知なるもの」が「ほんとうにあって欲しい」と思うのだろうか?

  火星生物を追い求めようとする科学者の熱意。それは、ダイオウイカの生態を追い求めようとする科学者の熱意と同じだ。さらにそれは、見たこともないような巨大な生物に、恐怖と憧れを同居させた感情を抱く多くの人々の熱意とも同じである。

 私がいつも生物学関係の講義で言うことだが、生物学という学問は、生物とは何かを知るための学問であることは言うまでもないことながら、じつは人間を含めて様々な生物たちの類まれなしくみの全てを研究し、知ることによって、私たち人間の、生物界における立ち位置を再認識するための学問でもある。

  そういうことを知ってか知らずか、時として人間は、他の生物に自らのありようを写しとり、それを鏡として利用することで自らのことを知ろうとする。強いものの象徴としての獅子、ずる賢いことの象徴としての鼠、執拗さと執念深さの象徴としての蛇、そして可愛らしさの象徴としての子犬や子猫たちに、人間は自らの姿を求めるのだ。

  巨大さとは、ストレートに考えれば強さの象徴でもあるが、ダイオウイカにはもう一つ、クラーケンとしての"妖怪的な"イメージもまた、付与されてきた。なぜなら(というべきか、結果的にと言うべきか)、「伝説はほんとうだった」という文脈で語られる成果に、人々は往々にして好奇心をかきたてられるからである。

  してみると、火星生物にもまた、昔からタコのようなイメージが付与されてきたという意味においては、火星生物もダイオウイカも、そうは変わるまい。ダイオウイカにせよ、火星生物にせよ、そうした「未知なるもの」を追い求める科学者の姿勢は、彼らを鏡の向こうの世界に立たせておき、鏡のこちら側の世界にいる私たち人間とを対比させて、「人間って一体何なの」という古来の疑問に立ち向かおうとする姿勢につながっている。

  巨大なタコ、巨大なイカ、そしてクラーケンに抱く人々の畏怖は、まさにそうした姿勢が具現化したものだ。クラーケンに恐怖と憧れを同居させた感情を抱くことで、人々は、自らの失われた理想の姿を、クラーケンの姿として写し見るのである。だから私は「残念ながら、生物がいる(いた)決定的な証拠にはならない」と打ち込んでしまったのだ。
  私たち人間は、鏡の向こうに立たせるべき「未知なるもの」を、次々に探し求め続けずにはおられない存在なのである。それはまるで、現代の大消費社会に象徴される、「次から次へ、新しく、未知なるものを」身の回りの商品に求め続ける私たちの姿、そのものではないか。

  キュリオシティ(好奇心)という名の小さな探査機は、私たち人間の、そうした壮大かつ子どものように純粋で普遍的な姿勢が、そのまま「複製(コピー)」されて作られた機械であるのに違いない。となれば、注目しないわけにはいくまい。

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筆者

武村政春

武村政春(たけむら・まさはる) 東京理科大学准教授(生物教育学・分子生物学)

東京理科大学大学院科学教育研究科准教授。1969年三重県生まれ。1998年名古屋大学大学院医学研究科博士課程修了。博士(医学)。名古屋大、三重大の助手等を経て現職。専門は生物教育学、分子生物学、細胞進化学。著書に「レプリカ~文化と進化の複製博物館」(工作舎)など多数。【2015年10月WEBRONZA退任】

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