2013年05月15日
この種の構想は、これまでにも折にふれて論じられてきたものであり、第一印象としてまず浮かぶのは「ここにきて何を今さら」という感や、「遅きに失する」という思いであることは否めない。
しかしそうしたことはさておいて、「日本版NIH構想」という考え方そのもの――アメリカのNIH(National Institutes of Health)のような、医学・生命科学研究biomedical researchの基礎から臨床までを一貫して担当し、研究予算配分を行う組織をつくること――は妥当であり、大枠としての方向自体は賛成できる。手前味噌になるが、1990年代に私が医療政策ないし医療経済分野でおこなっていた調査研究の大きなテーマはこうした「医療技術政策」に関するもので、当時公刊した『アメリカの医療政策と日本』(92年)、『医療の経済学』(94年)などでも、日本における医療技術政策の確立・強化の必要性や「医学・生命科学研究政策の全体を統括する機関の創設」の重要性を論じていた。
しかしながら、より立ち入って考えると、現在進められている「日本版NIH構想」は、とくに安倍氏の成長戦略の全体像を視野に入れてとらえた場合、一歩間違えれば非常に問題のある医療の姿を日本にもたらしてしまう恐れがあると思われる。
それはやや単純化して言えば「医療システムのアメリカ化」と呼べるような方向であり、言い換えれば「ピンポイントの技術水準は高いが、医療システム全体のあり方としては費用対効果も低く、半ば破綻している」ような医療の姿である。
以下、こうした点について考えてみたい。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください