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 7月5日、日産財団にて、「なぜ日本半導体は壊滅したか」というタイトルで講演し、デイスカッションおよび懇親会を行った。参加したメンバーは、日産関係者5人、NPO法人「次世代エンジニアリングイニシアチブ」関係者3人、独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」関係者3人、それに私の合計12人だった。

 注目すべきは、NEDO関係者の中に現在理事長で、2006年から2009年まで日立製作所の第8代社長を務めた古川一夫氏が参加していたことである。古川氏は日立の社長時代に、日本の製造業史上最大の赤字7873億円を2009年3月期に計上したことでも知られている。

 主催者からは、日立の元社長に気兼ねすることなく、半導体業界の内部観察者として、凋落の原因を事実に基づいて指摘するよう依頼されていた。

 私は、いつも通りの自己紹介から始めた(図1)。私は、日本半導体が黄金時代にあった1987年に日立に入社し、2002年10月に退職するまでの16年半、主として半導体メモリDRAMの微細加工技術の開発に従事した。

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 その間、中央研究所、半導体事業部(武蔵工場)、デバイス開発センター、NECとの合弁会社エルピーダへの出向、民間コンソーシアムの半導体先端テクノロジーズへの出向と、部署を転々とした。そうしている間にも日本のDRAMシェアは低下の一途を辿り、私はまさにDRAMの凋落とともに技術者人生を歩んでしまった。

 そして、2000年に日本がDRAMから撤退した後、日立は「40歳で課長職以上は全員責任を取って辞めて欲しい」という早期退職勧告を行った。その結果、たまたま40歳で課長だった私は日立を辞めることになった。

 ただし、次の転職先を探すのに苦戦したため、辞表を出したときは早期退職制度の期限を(確か)1週間ほど超過してしまった。それ故、早期退職制度を使うことができず、自己都合退職が適用され、本来なら年俸の2年分(2500万円)が上乗せされたはずの退職金は、たったの100万円になってしまった。

 私は年間20~30回ほど講演を行うが、通常はこのような自己紹介をすると会場には驚きとともに笑いの渦が巻き起こる(特に外国人には大受けする)。しかし、今回は、日立の元社長がいたこともあったせいか、会場は凍りついたようになった。

 自己紹介の後、

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筆者

湯之上隆

湯之上隆(ゆのがみ・たかし) コンサルタント(技術経営)、元半導体技術者

1987年京大修士卒、工学博士。日立などで半導体技術者を16年経験した後、同志社大学で半導体産業の社会科学研究に取り組む。現在は微細加工研究所の所長としてコンサルタント、講演、各種雑誌への寄稿を続ける。著書に『日本半導体敗戦』(光文社)、『電機・半導体大崩壊の教訓』(日本文芸社)、『日本型モノづくりの敗北-零戦・半導体・テレビ-』(文書新書)。趣味はSCUBA Diving(インストラクター)とヨガ。 【2016年8月WEBRONZA退任】

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