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「チェルノブイリ×10」  吉田昌郎・元所長が残した言葉

竹内敬二 元朝日新聞編集委員 エネルギー戦略研究所シニアフェロー

 3・11のあと、私は東電に「吉田昌郎・福島第一原発所長にインタビューしたい」と何度か申し込んだが、かなわなかった。吉田氏には会ったことがない。いま訃報に接して思うのは、食道がんの進行の速さへの驚きと、「その率直な言葉で、おおやけの場でもっと話して欲しかった」ということだ。

 吉田元所長について、関係者からは「あの事故のとき、吉田さんが所長だったからまとまった」と、指導力への高い評価が寄せられている。テレビ会議の映像などでは「みんなを引っ張る」という雰囲気を感じる。一方、我々マスメディアにとっての一つの印象は「記者会見をしなかった所長」である。あれだけの事故を起こした原発の責任者なので普通では考えられないことだ。食道がんが見つかってからは療養の生活だったろうが、事故後、割と早い段階で会見はできたのではないかと思う。これは吉田氏というより、東電の方針・姿勢だろうが。

 吉田氏が多数の記者のまえでしゃべったのは、事故から8カ月も経ってからだった。2011年11月12日、事故後はじめて、36人の記者団(各社一人)が細野豪志・原発担当相について第一原発を訪問したときだ。

 このとき1号機の水素爆発にふれ、「最悪、格納容器が爆発して放射能が出てくることも想定した。メルトダウンが進んで、コントロール不能になってくれば、これで終わりだという感じがした」「3月11日から1週間で死ぬだろうと思ったことは数度あった」など率直に話している。しかし、いかんせん時間が15分と短い。突っ込んだやりとりはできなかった。

 結局、多数の記者の前でしゃべったのはこのときだけだった。その後、食道がんが見つかり、12月に所長を後任に譲り、翌年7月には脳内出血で倒れた。そのほかでは、政府事故調、国会事故調のヒアリングに応じた。しかし、民間事故調(北澤宏一委員長)のヒアリングには、東電関係者は応じなかった。

 吉田氏はおおやけの場ではなく、相手を選んではかなりしゃべっている。2012年8月11日、福島市で開かれた出版社主催のシンポジウムで、発言がビデオで公開されたことがある。これは、ある人材育成コンサルタントがインタビューしたものを約30分にまとめたものだった。当時話題になっていた「東電の原発からの撤退問題」について、「本店にも撤退と言っていないし、思ってもみなかった」と話している。

 最も本格的なものは、ノンフィクション作家である門田隆将氏による2回、計4時間半のインタビューだ。その濃厚な内容は門田氏の著書『死の淵をみた男 吉田昌郎と福島第一原発の五00日』に盛り込まれ、貴重な歴史資料になっている。

 ここで吉田氏は、事故直後に原発内で起きたことをかなり詳しく語り、最悪の事態の想定を「チェルノブイリ×10」と表現している。これは、一つの格納容器が爆発した場合のシナリオである。原発全体が高レベルの放射能に覆われるので、だれも原発に近づけず、福島第一原発(6基)と第二原発(4基)の計10基が放棄・破壊されるので「チェルノブイリの10倍」の放射能が出る可能性があったということだ。

 そして実際に、その一歩手前までいった。事故4日目の14日夜、2号機の格納容器の圧力が、「もう爆発は不可避」というレベルにまで上昇したのである。そのギリギリの状況になったとき、吉田氏は「何人を残して、どうしようかというのを、その時に考えました」「自分と一緒に”死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていた」と述懐している。

 「チェルノブイリ×10」について、同じ本の中で、班目春樹・元原子力安全委員長は「日本は3分割されていたかも知れない」といっている。東京も含む日本の真ん中が放射能で住めなくなり、住めるのは北海道、西日本の「両端だけ」というものすごい話である。

 これは当時の菅直人首相がもった危機感と同じものだった。2号機格納容器が爆発する可能性が高まった3月14日夜から翌15日未明にかけ、東電の清水社長が、官邸に「第一原発から撤退(退避)すること」の同意を求めて何度も電話した。菅首相はこれに怒り、15日早朝に東電に乗り込み、「撤退は許さない」と演説した。

 菅氏の著書『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』によれば、菅氏は東電でこう演説している。「これは2号機だけの話ではない。2号機を放棄すれば1号機、3号機、4号機から6号機、さらには福島第二のサイト、これらはどうなってしまうのか。これらを放棄した場合、何カ月後にはすべての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。チェルノブイリの2倍から3倍のものが10基、20基と合わさる。日本の国が成立しなくなる……」。ただ、この演説部分だけ、東電のテレビ会議システムから「音声だけが消える」という不可解なことが起きている。

 私自身も、この2号機の格納容器問題にこだわっている。格納容器の圧力が上がった14日夜。そして格納容器下部付近で爆発音がし、周辺の放射線強度が急上昇した3月15日朝、新聞社の編集局を覆った「どこまで汚染が広がるのだろう」という恐怖を覚えている。2号機格納容器はなぜか爆発しなかった。「プシュー」という形で壊れ、かなりの放射能を出したようだ。詳細は不明だ。

 ともかく、原発サイトの高濃度汚染がおこりうると考えると、原発をもつ国と企業はこれまでより厳しい覚悟と準備が求められるようになる。これまで私がWEBRONZAで何度か書き、最近書いた本『電力の社会史 何が東京電力を生んだのか』(朝日新聞出版)でも指摘したが、「原発事故の際、命にもかかわる作業はだれが担うのか。高放射線下の作業を命じることができるのか。命じられたら従わなければならないのか」という問題だ。

 今年7月に新しい規制基準が施行された。これまでは「過酷事故は起きない」というのんきな安全神話にもとづいていたが、これからは過酷事故の対策が義務になった。しかし、本気で過酷事故が起きたら、と考えているのかどうか。

 例えば、地元自治体では大量の放射能放出を前提に、住民避難計画を立てようとしている。住民が早く遠くへ避難することを考えているが、そのとき大量の放射能を出している大元である原発ではどうするのか。「作業員が退去するか残るか」の問題に直面することがあり得ると考えるか、あるいは「そこまでの厳しい事態は起きない」という第二の安全神話に頼るか。

 いま、東電は新潟県の柏崎刈羽原発を再稼働させようとして、泉田知事がそれに反対している。理由の一つは「福島事故は収束していないし、事故の検証も不十分」ということだ。「事故で放射線量が高い状態のとき、だれが収束作業にいくのか」ということも指摘している。まさにチェルノブイリや福島で直面した問題の問いかけだ。

 1986年のチェルノブイリ原発事故では、事故・火災を収束するために消防士たちが放射能にさらされる過酷な作業に従事した。そして放射線障害で30人近くが死亡した。その作業員たちの決死の作業によって、放射能の大量放出は10日で止まった。もしだれもが原発から逃げていたら、

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