メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

ニュースアナ五輪慶祝笑顔に脱原発を思う

尾関章 科学ジャーナリスト

 不気味な日曜日だった。目が覚めると東京五輪の2020年開催が決まっていた。そのことをどうこう言うつもりはない。悪酔いの錯覚にとらわれたのは、この一報を受けた番組で画面に出てくる人、出てくる人のほとんどが満面の笑みを浮かべていたことである。とりわけ違和感を覚えたのは、NHKなどでニュースを読むアナウンサーたちだ。私が見たものに限れば、こぞって笑顔で「東京に決定」を伝えていた。

 オリンピックで日本人選手が金メダルを獲ったとき、サッカーW杯の試合で日本チームが勝ったとき、あるいは科学の領域で言えば日本人研究者のノーベル賞受賞が決まったときによく見られる光景だ。日本のテレビを見る人のすべてが日本人ではないし、日本人でも外国人選手や外国人研究者を好きな人はいる。それを国内では、なべて日本人の活躍に対する期待感が支配的とみなして、こうした報道をするのだろう。私はこれにも議論のタネはあると思うが、一方でそのくらいの「郷に入れば……」はいいのかな、という寛容さももちあわせている。関西のスポーツニュースで阪神タイガースの優勝がスタジオ内の歓声とともに報じられたとしても「まっ、いっか」と苦笑いするような感覚だろう。

 だが、五輪招致はそれとは違う。素朴なナショナリズムとは別次元の話だ。スポーツファンの喜びを伝えるのはよい。招致委員会メンバーの活躍ぶりを報告するのもよい。ただ忘れてならないのは、日本社会が首都五輪を7年後に想定して走りだすのかどうかは、私たちが未来社会をどうデザインするかという問題と密接不可分だということだ。だから、東京開催には決定前から批判的な意見があったし、決定後もすぐにそれが消滅したわけではない。そういう議論を拾いあげるのがメディアの役割だろう。アナウンサーたちの笑顔は、逆にそれを封じるものだった。このニュースこそは、中立に徹した客観報道をすべきだったと思えてならない。

 ことのほかそう思うのは、やはり2年前の「3・11」があったからだ。東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原発事故の衝撃は、私たちのものの見方に見直しを迫るということでは1945年の「8・15」に比肩するものだったと言えよう。「軍国主義から民主主義へ」に相当する言葉を探しだせば「集中から分散へ」ということになる。

・・・ログインして読む
(残り:約1624文字/本文:約2597文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。週1回の読書ブログ「めぐりあう書物たち」を開設中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

尾関章の記事

もっと見る