2013年10月28日
前回はAIの話から始めてコンピューターと人間の境界、そしてポストヒューマンをめぐる話題に及んだ。しかし、このテーマにはもう一つの重要な局面がある。
それは「意識の共有(ないし共同性)」というテーマであり、そしてそこから派生する、端的に表現すれば「現実とは脳が見る(共同の)夢か」という問いないし世界観をめぐる話題である。
ここでも議論を駆け足で進めるが、人間の意識あるいは「世界」というものが、個体あるいは個人によって独立に成り立つものではなく、他者との相互作用を基盤としてはじめて生成する、本来的に「共同」的なものであるという理解は、哲学の分野においては以前からよく議論されてきた。
これも多少の個人的な述懐を含めて記させていただければ、学生時代に私が大きな影響を受けた哲学者である故廣松渉が「共同主観性」という言葉で論じていたのもこのテーマであり、それは個人や個体を独立自存のものとしてとらえる近代的なパラダイムへの批判という性格をもつものでもあった。ちなみに吉本隆明の「共同幻想」論なども、議論の力点はかなり異なるが同様の性格を一部にもつものだったと言えるだろう。
実はこうした議論は、最近脳研究の分野で話題になっている「ソーシャル・ブレイン(社会脳)」のテーマと実質的に共通する性格のものである(ソーシャル・ブレインについては藤井直敬『つながる脳』(NTT出版、2009年)など参照。余談ながら私はこの本が出たとき朝日新聞で書評を書く機会があった)。
ソーシャル・ブレインの議論は、人間の脳が現在のようなかたちで高度に発達した過程において、他者あるいは他個体との(情緒面を含む)相互作用が決定的に重要な役割を果たしたと理解するものである。これは「人間の意識は、それ自体の成立において他者との相互作用が不可欠の基盤であり、その意味において本来的に『共同的』なものである」とする共同主観性論とそのまま呼応している。
ここで議論をさらに進めると、興味深いことにこのようなテーマは、近年の映画などで、その広がりをよりリアルに感じさせる形で展開していると言えるだろう。
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