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湯川・朝永、謎のぶらり旅―中間子論80年

尾関章 科学ジャーナリスト

 原子力のことを考えるなら、2014年初めにぜひ念頭に入れておいてほしい史実がある。原子核エネルギーの正体を見抜く理論が登場したのが、ちょうど80年前だったということだ。日本初のノーベル賞をもたらした「中間子論」である。当時大阪帝国大学の講師だった理論物理学者の湯川秀樹が1934(昭和9)年11月17日、東京帝国大学で開かれた日本数物学会で口頭発表した。

 中間子論は、原子核をかたちづくる陽子や中性子がどんなしくみで結びついているかを説明する理論だ。そこに働いているのは、重力でも電磁力でもない新しい力であるとして、その媒介役である中間子の存在を予言した。この新しい力、すなわち「核力」で束ねられた原子核を人為的に分裂させ、束縛エネルギーを解放させるのが原子力だ。東京電力福島第一原発事故のはかり知れない広がりを見るとき、人間が物質の礎石である原子核を無謀にもかち割ったことで、そのしっぺ返しを食らったというふうに感じてしまう。

 さて今回は、そういう科学史本筋の話をひとまずおいて、正月にふさわしい余話を湯川の個人日記から拾いあげてみたい。それは、湯川が中間子論発表の前日、物理学者仲間の朝永振一郎らと千葉県の我孫子まで日帰りぶらり旅をしていたという微笑ましい話である。なによりも、一世一代の大舞台を前によくそんな余裕があったなあ、という印象を受ける。そして、行き先が鎌倉でも日光でもなく、どうして我孫子なのかという意外感もある。湯川と朝永は友人であると同時にライバルであり、二人が日本で一人目、二人目のノーベル賞受賞者であることを考え合わせると、このミステリーはなかなかに魅力的だ。

 日記をひもといてみよう。湯川が兵庫県西宮市苦楽園の家を出たのは11月14日水曜日。「五時半起床。桜にて東上、割合すいてる」とある。桜は下関発東京行きの寝台特急。午後6時には、東京・駒込にあった理化学研究所(理研)に顔を出している。翌15日は午前中に理研を訪ねたものの午後から横浜へ。めったにない東京出張の機会に、あちこちへ足を延ばそうとしていたことがわかる。用事が一つなら日帰りが当たり前になった今の東京・関西ビジネス出張とは大違いだ。

 そして、問題の16日。「大変よい天気。九時過、理研へ行く。朝、小両君と、十時半発、常盤線で我孫子下車。三、四分で手賀沼畔にでる」。ここで「常盤線」は「常磐線」の誤記。「朝」は朝永のこと、「小」は物理学者小林稔だ。余談だが、私が去年暮れに我孫子駅から手賀沼まで歩いたところ、ゆうに10分はかかった。3人はよほど速足だったのだろう。そして「渡しを渡つて対岸を歩き、又、他の渡しでもどり、日当りよい所で弁当を食べる。三時過、上野着」。わずか4時間半、これが湯川、朝永の我孫子ぶらり旅のすべてである。

手賀沼畔は今も憩いの場となっている=2013年12月、我孫子市で尾関章撮影
手賀沼畔は今も憩いの場となっている=2013年12月、我孫子市で尾関章撮影

 私は去年12月、我孫子市で開かれた「我孫子サイエンスカフェ」(栗田守敏さん主宰)の「カフェコラム」と称するショートトークセッションで、このエピソードを紹介した。手賀沼までの歩行実験を試みたのも、実はこのカフェ当日のことだった。

 カフェで参加者たちに問いかけたのが「なぜ我孫子か」だ。理研で顔を合わせた若手物理学者が思いついた5時間コースの行楽がたまたま我孫子行きだったのか。それとも、湯川に「東京に行ったらぜひ我孫子へ」という格別の思いがあったのか。

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