2014年01月16日
1月になると、いよいよ大学入試シーズンの到来である。職業柄、大学入試はどうあるべきなのか考えさせられることは多い。この場でもたびたび自説を披露してきた(入試の公平性ってなんだろう、入試の公平性再考――木を見て森を見ず、対症療法でないセンター試験改革を、日本式入試しきたり「四つの怪」)。そこで今回は、単なる批判ではなく、具体的な提言をしてみたい。
まずは、日本の大学入試制度の現状を総括しておこう。
1) 入学後に講義を理解できる学力の有無を適切に判断する、と同時に講義を理解するために必要としているレベルを明示しそれまでの学習目標を設定することが入学試験の第一義的な存在価値であろう。かつては選抜レベルが高すぎて受験地獄という言葉さえも生まれたが、今や、その学力に関係なく入学定員を満たすまで埋めるための建前的制度となっている場合も多い。
2) 国公立系の場合、受験する大学をあらかじめ決めておく必要がある。つまり、A大学を受験することはB大学は受験しないということを意味する。その結果、受験生の立場からは複数受験の選択肢が奪われ、一回しかチャンスがない大学に対しては一点の差を正当化できるような機械的な公平性が求められる。したがって、各大学が独自の(個性的な)選抜基準を設定し、多様な学生を集める自由度を失わせている。
3) 逆に、私立大学の場合はその学科ごとに入学試験を課しており、日本全体で行われている入試の回数は数えきれない。これでは、受験生(とその家族)の肉体的・精神的、さらには経済的負担が大き過ぎる。同様に大学教員の負担も膨大である。その結果、2月と3月の大学は教育の役割を果たせない受験会場と化している。
一方で、現行の制度がある種のプラスの効果をもたらしている側面もある。日本では、
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