2014年01月17日
日本原燃は1月7日、青森県の六ケ所再処理工場の本格操業をめざして新規制基準への適合審査を申請した。日本は今からプルトニウムをつくり出し、核燃料サイクルを始めようとしている。一方、かつて「核燃サイクルの兄弟国」といわれてきたドイツは、残りわずかになったプルトニウムをMOX燃料で使い切る最終段階に入っている。ドイツの「プルトニウムとの完全なサヨナラ」は2016年。両国の状況はまったく異なるものになった。
昨年、ドイツ環境省がつくった「MOX利用計画」の内容を知る機会があった。それによると、ドイツは次のような詳細なプルトニウム消費計画をたてている。
2013年には1・2トン、14年には1トン、15年に1・2トン、そして16年に最後の0・2トン(いずれも核分裂性プルトニウム分の値)を消費し、それでドイツのMOX使用は完全に終わる。14~16年の総計は2・4トンほどとあと少しだ。MOXを使う電力会はRWE、Eon、EnBWの3社で原発も決まっている。
ドイツのMOX燃料使用は1987年に試験的に始まった。2012年までにMOX燃料で消費したプルトニウムの量は約33トン(核分裂性の量)なので、16年で終了する29年間で総計約37トン(全プルトニウム量でいえば約60トン)を使い切ることになる。
日本は国内と海外に計約44トンの分離プルトニウムをもち、六ケ所再処理工場ができると年間7~8トンのプルトニウムが出てくる。福島事故、原発停止でMOX燃料の利用計画は崩れたままだ。
ドイツは2011年、「22年に原発を全廃する」と決めた。当然、MOX利用もその間しかできないが、ちゃんと「プルトニウムを使い切る計画」をつくった。それも原発全廃より6年も前倒しする16年で終了する。これでドイツは、1960年代から技術確立をめざしてきたサイクルと完全に手を切ることになる。
「完全なサヨナラ」をするために、ドイツはかなりの苦労、工夫を強いられた。英国セラフィールドにあったMOX工場(SMP)が2011年8月に閉鎖され、英国内ではMOX燃料がつくれなくなり、ドイツが英国に置いてあるプルトニウムが中に浮いたからである。
ドイツは二つのことをした。一つは「プルトニウム・スワップ」。12年、英国にあるドイツのプルトニウム約4トンを英国に引き取ってもらう代わりに、フランスにあるフランスのプルトニウム4トンをもらうというものだ。それをフランスのメロックスMOX工場で燃料に加工してもらう。
13年4月、ドイツと東電のスワップが発表された。東電がフランスに置いているプルトニウム650キロ(全プルトニウム量)をドイツの電力会社の所有に移し、一方、英国にあるドイツのプルトニウムの同量を東電の所有にした。
もう一つは「プルトニウムの所有権移転」。同じ13年、英国に置いてあったドイツのプルトニウム750キロ(全プルトニウム量)を英国政府に「お金をつけて移譲」した。「お金をつけて引き取ってもらう」というのは、価値のあるものを売るのではなく、「とにかく処分してください」ということである。「ごみの処理」と同じだ。スワップや所有権の移転の目的は、とにかく早くプルトニウムと手を切ることだ。
歴史を振り返れば、日独が原子力の積極推進、核燃料サイクル実用化をめざして本格的にスタートしたのはほんの40年前、1970年代のはじめだった。「同じ原子力路線を同じ熱意で走り始めた」といわれた。日独は国の規模が似ており、大戦の敗戦国で核兵器を持たない国、それでも再処理・プルトニウム抽出を行う国という点でも共通していた。「核兵器を持たない国なのに再処理をやらせていいのか」という世界のプレッシャーに対しても協力して切り抜けてきた。
しかし、両国の道は次第に開いていった。ドイツでは冷戦時代に盛り上がった核兵器配備反対運動が反原発運動と結びつき、80年代に入ると反核・反原発運動が激化した。80年には「緑の党」が結成され、政治面でも原発反対が強まった。
チェルノブイリ原発事故(1986年)を経て盛り上がった反対運動は89年、ついにドイツ南部バッカースドルフに建設が予定されていた再処理工場を建設中止に追い込んだ。電力業界は「再処理をフランス、英国に委託すればいい。その方が安くつく」と軽く考えたが、国内で重要な核燃サイクル施設を建設できなかったことは、サイクル推進にとって大きなダメージになった。
91年には、北部のカルカーに建設された高速増殖原型炉SNR300が本格試験運転の直前に放棄された。州政府が危険性を理由に運転を止める裁判を起こし、所有者である電力業界が裁判の長期化を嫌気して放棄した。今は子どもたちが集まるアミューズメントパークになっている。そしてハナウ市に建設されたMOX工場は、完成直前の93年に、これまた安全性を問題にした裁判で操業できなくなった。サイクルに関する何もかもが崩れていった。
そうした流れが集約された政治的決定が、94年の原子力法改正だった。それまで「使用済み燃料の全量再処理が義務」だったものが、「再処理しなくてもいい」となり、一気に脱再処理の流れができた。
98年に社会民主党(SPD)と緑の党の連立政権ができたことが決定的だった。2000年には電力業界と政府との間で脱原子力に合意し、02年に「2022年までの原発全廃」を法律できめた。その後、ドイツは代替エネルギーとして、再生可能エネルギーを大きく増やす政策を始めた。2010年にメルケル政権(CDU)が「2034年ごろまでに脱原発」と少し緩和したが、福島原発事故後の11年に再び「2022年までに全廃」に戻した。
しかし、高レベル廃棄物の最終処分という大問題は、大半の原子力利用国と同様、処分場所が決まらずまったくめどがついていない。ドイツもこの問題からは手が切れない。
この25年で、ドイツと日本はまるで違う道を歩むようになった。かつては、バッカースドルフ再処理工場と六ケ所再処理工場、SNR300と「もんじゅ」は、それぞれ「姉妹施設」として特別な技術交流があり、お互いの安全研究を支えていたが、それもなくなった。
ベルリンにあるエコ研究所のミヒャエル・ザイラー所長は「FBRと再処理がつくるサイクルのビジョンは消えた。ドイツももっと早い時期、70年代に『これらはすべて高い』ということに気づいていれば、ものすごいお金を節約できただろう」という。
プルトニウムと手を切ることで核拡散の無用な議論からも解放される。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください