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続・佐村河内事件は何を提起しているか〜人々は何に金を払ったのか?

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

 前稿で、人気の「全聾作曲家」佐村河内守(敬称略)の代作問題をやや詳しく振り返り、きわめて現代的なふたつの問題が提起されている、と述べた。

 その第一は、マーケティングに関わる問題だ。端的に言って、人々はどこに感動し、何に金を払ったのか。現代マーケティングにおいて、コンテンツ(内容)とカバーストーリー(=楽曲や作者の来歴にまつわる物語)とは、どういう関係にあるのか。

 この一件で注目すべきは、佐村河内とその「作曲活動」の周辺が、豊かなカバーストーリーに満ちていることだ。いわく被爆者の両親、村上水軍の末裔(まつえい)、 聴覚障害をはじめ、抑鬱(よくうつ)神経症、不安神経症、耳鳴り発作、重度の腱鞘(けんしょう)炎など(ウィキペディアによる)。佐村河内は自らの障害や持病をむしろ積極的に公表し、作品のテーマでもヒロシマや東北震災などに、露骨にすり寄った。そのお陰で(?)NHK番組など各メディアで称賛された。さらに佐村河内の「まな弟子」として、義手の女子中学生ヴァイオリニストが登場するなど、メディアの増幅回路の中で物語が物語を呼んだ。だがそれが今や、ことごとく奇怪な、グロテスクな様相を呈している。

 たいていの場合カバーストーリーは(その名の通り)外側の問題で、中身=コンテンツに比べれば「本質的ではない」。だがこのケースで問題にしたいのは、まさにその中身と外側(本末)が転倒する可能性についてだ。

 人々はカバーストーリーに金を払う。その程度はさまざまだが、このケースはその度合いが、ひときわ突出していた。その意味で本本末転倒して見えるのだ。

 日本はどうやら、美談王国らしい。もちろん米国人だって

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