2014年03月21日
現在議論を巻き起こしているSTAP細胞の事例はいろいろな意味で稀であるとはいえ、問題が発覚する前とその後で、手のひらを返したように異なるコメントを垂れ流しているだけのメディアや「識者」にはうんざりさせられる。一方で、最近武村政春さんがWEBRONZAに書かれた論考はとてもすばらしく、大いに共感した。このような深い見識を持つ科学者の意見がより広く理解されて欲しいものだ。そこで、今回は物理学の現場で博士号がどのようにして生まれているかを紹介することで、研究倫理の教育について相補的に考えてみたい。大学院で研究倫理の講義を必修にすれば良いとの意見も聞かれるが、本質はそこにはないというのが現場の実感だ。
1 大学院教育は徒弟制度的
大学の学部までの教育は全員が一斉に受ける講義、演習、実験が主である。特に理学部の場合、卒業論文やゼミすら存在しないことも多い。しかし、このスタイルは大学院では一変する。理系大学院生の生活は、公私ともに所属した研究室で閉じてしまうため、研究テーマはもとより、より一般的な価値観、研究スタイル、論文の書き方、プレゼンテーション法に至るまで、指導教員と研究室の諸先輩から直接影響を受ける。いわば徒弟制度であるため、学生の倫理観もまた指導教員に大きく依存する。
2 修士論文と博士論文
修士課程2年修了時には修士論文提出が必須である(最近は修士論文を提出せずとも修士課程を修了できる制度への変更が議論されているようだが、私は反対である)。修士課程では大まかな研究テーマは指導教員に与えられることが多いが、先行研究論文を学び、批判的に読み込むことで問題点を洗い出し、それらから解くべき問題を洗い出し、具体的に解ける問題に還元。その後は、試行錯誤を経ながら問題を解き、(できたところまでを)修士論文にまとめ、プレゼンテーションを作成し、審査会での発表を経て、修士号の学位を取得する。研究の縮図とも言うべき一連の作業を実際に一通り経験させることは、学生にとって貴重な場である。
博士課程に進むと、学生が指導教員を超えて主体的な研究を行うことが期待される。特に、理論物理学分野では、学生が自ら研究テーマを探して、単独で、あるいは指導教員以外の研究者(先輩や後輩を含む)と共同で研究することも少なくない。
一方、
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