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吉田調書の歴史的意義

吉田文和 愛知学院大学経済学部教授(環境経済学)

この記事は、2014年5月20日付の朝日新聞紙面をはじめとした、吉田調書に関する報道に基づいたものです。この報道については、こちらをご覧ください。(2014年9月11日 WEBRONZA編集部追記)

 東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故は、現代史に残る一大事件である。その基本的な資料が「吉田調書」としてまとめられていることが判明し、朝日新聞がその大要を報道した。「吉田調書」は、現代史の証言として、歴史の審判、検証に応える基本的資料である。個人の意思、責任を超えて、何か起きたのかを明らかにするために不可欠である。

 同時に、「吉田調書」は、現代日本が直面する原子力発電所の再稼働問題に関連して、福島第1原発事故の検証が不十分ではないか、未公表の資料がまだあり、未解明の部分を残しているのではないか、という疑問を起こさせる。

まるで空爆の後。水素爆発で破壊された福島第一原発4号機

 竹内敬二論文(webronza2014年6月2日付)が指摘するように、「吉田調書」の内容が政府事故調査委員会報告に十分正確に反映されていないのではないか、という問題を提起する。そもそも政府事故調査委員会のメンバーが「吉田調書」の存在を知らず、内容も読んでいない(朝日新聞、2014年6月6日付)とすれば、それは政府事故調査報告の内容の正確さにかかわることである。
「吉田調書」の内容で重要な点は、朝日新聞の報道によれば、以下の諸点である。

 (1) 2号機格納容器が危険になったとき、吉田所長の意図に反して、福島第一原子力発電所の要員の約90%(650名)が、10キロ離れた福島第二発電所に移動した(「フクシマ・フィフティーの真相」)。
 (2) 東京電力も福島第1原子力発電所が危険になる可能性を考え、撤退の方向で動いていた(「ここだけは思い出したくない」)。
 (3) 吉田所長は諸困難のなかで、「誰も助けに来なかった」という事態に追い込まれていた(「誰も助けに来なかった」)。
 (4) それでも最悪事態を免れたのは、吉田所長を含め残った69名と第二発電所から戻った所員の決死の努力と対処、いくつかの「幸運」(4号機の工事の遅れなど)のためであった(「「決死隊」は行った」)。
 (5) 吉田所長も原子炉の状態について、誤判断した部分があり、「全電源喪失」を想定していなかった(「叡智の慢心」)。
 (6) 原子力安全・保安院などは、3号機の異常について情報を出させず、プレスを止めるという方向に動き、人為的に放射性物質をまき散らすドライベントが住民に知らされないままに行われる恐れがあった(「広報などは知りません」)。

 以上をまとめると、吉田所長の「知恵」と「勇気」があっても、地震と津波による原発事故は防げなかった。混乱のなかで原子炉の状況が正確につかめず、判断ミスもあり、外部攪乱要因などに対処できなかったのである。

 このように、「吉田調書」を通じて明らかにされているのは、原子力発電所は、事故に陥った場合のリスクが大きすぎるということである。これが他のエネルギー源である火力発電所や再生可能エネルギーを利用した場合と決定的に異なる。アメリカのスリーマイル島事故や旧ソ連のチェルノブイリ事故とこの点は共通である。東電による「制御不能」、撤退という判断、東日本2500万人の避難を管首相が検討せざるを得なかったというリスクである。

 福島第1原子力発電所の事故をきっかけに最終的に脱原発を決断したドイツ脱原発倫理委員会報告(2011年5月、邦訳、大月書店刊)の3つの論拠は、(1)原発は、事故が起きた場合のリスクが大きすぎる、(2)原発以外に安全なエネルギー源がある、(3)脱原発の方向に行くことが経済的にも有利であり、展望があるという判断であった。

 まさに、この脱原発の第1の論拠を「吉田調書」が明らかに示しているところに、その歴史的意義がある。原発の再稼働を急ぐ前に必要なことは、事実に則した「反省」であり、「そもそも論」である。そのための基礎を「吉田調書」は提供している。それを「遺言」として生かして受け止めるかどうかは、我々にかかっている。そのためには、「吉田調書」の全面的公開が是非、必要である。

 私は同じ吉田姓であるが、吉田所長とは親戚関係などは全くない。日本の一国民として、一研究者として強く要望するものである。