米山正寛(よねやま・まさひろ) ナチュラリスト
自然史科学や農林水産技術などへ関心を寄せるナチュラリスト(修行中)。朝日新聞社で科学記者として取材と執筆に当たったほか、「科学朝日」や「サイアス」の編集部員、公益財団法人森林文化協会「グリーン・パワー」編集長などを務めて2022年春に退社。東北地方に生活の拠点を構えながら、自然との語らいを続けていく。自然豊かな各地へいざなってくれる鉄道のファンでもある。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコの世界文化遺産へ登録されることが決まった。冨岡製糸場(群馬県富岡市)とともに世界 遺産の構成資産となったのは、カイコの飼育技術確立と人材育成 の場となった高山社跡(同県藤岡市)、近代養蚕農家の原型と言われる田島弥平旧宅(同県伊勢崎市)、最大規模の蚕種貯蔵地だった荒船風穴(同県下仁田町)で、いずれもカイコを飼育して繭をとる養蚕業が長く基幹産業となってきた群馬県にある。登録決定で、それぞれの構成資産は新たなにぎわいを見せているようだが、これらの施設の発展とともに歩んだ養蚕業の現状を、今どれだけの人が知っているのだろうか。
養蚕業は中国で生まれ、弥生時代には日本へ伝わっていたという。奈良時代にほぼ全国へ広がったそうで、江戸時代までには京都の西陣をはじめとする、著名な絹織物の産地も形成されていった。明治時代を迎えると、富国強兵の旗の下、外貨獲得のため国による生糸生産の振興が始まった。そのためには海外から優れた最新技術を導入する必要があり、その実践の場として官営の富岡製糸場が生まれたのが1872(明治5)年のことだった。それと前後して、製糸場へ繭を供給する養蚕業の近代化も、残る三つの構成資産などを活用して進められた。
こうして成された日本独自の技術改良は、生糸の大量生産に大きく貢献した。明治~昭和初期にかけて生糸は日本からの輸出品の柱となり、輸出総額の約半分を占めた年さえあったという。この勢いを支えるため、最盛期には約220万戸の農家(当時の農家の約4割に当たる)が養蚕を営み、カイコの餌となるクワの畑は約71万ha(当時の畑面積の4分の1に当たる)もあり、年間で約40万tの繭を生産した。広いクワ畑と蚕室のある民家とは、水田とともに日本の農山村の原風景を演出していた。中でも群馬県は、もともと養蚕が盛んだった背景もあって主産地となり、県内の風物を題材とした上毛かるた(1947年発行)には「繭と生糸は日本一」という札があるほどだ。
ところが戦後、ナイロンなど化学繊維の普及に加えて、産業構造の変化によって農業人口が減少するなど、養蚕業を取り巻く状況は大きく変わった。
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