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科学批判なき日本、これで先進国なのか 米本昌平 × 尾関章トークセッション(3)

まとめ:尾関章

米本昌平、尾関章

 尾関 では、質問に入る前に、科学ジャーナリズムの話、それからこういう言葉が適切かどうかは分かりませんが、「科学論壇」のようなものが日本にはほとんどないような気がしているのですが、その辺りのお話をしていただければと思います。

 米本さんは『エコノミスト』でも『中央公論』でも、STAP第1報があった1月30日当日の新聞紙面を批判していらっしゃる。『中央公論』では今回の日本の報道は実に品がないと。そういうことをまずおっしゃった後で「純学術的な発生学の成果であるにもかかわらず、それを再生医療や特許という儲け話に結びつけることに終始した」というくだりがあるんですね。

 今日、冒頭、米本さんにレクチャーをしていただいたのも、今回のSTAP細胞の論文というのは、これは発生学の観点から言えば、それは正しいのか正しくないのか、不正とかなんとかじゃなくて、言っていることが正しいか正しくないかを含めて、かなりおもしろい一石を投じたものだったということですよね。

 米本 はい。

 尾関 そのへんの記事がほしかったんだと。

 米本 今回の報道のされ方は、一般的な関心、もっと言うと、ともかくおもしろい記事をという、俗な「知りたい」という欲望を正当化した論拠にのっているものばかりだったと思います。男性週刊誌まで含めると、メディアが「俗情の増幅装置」となっただけという印象です。それはそれで「自由な社会」のコストだと思います。

 しかし、いやしくも大新聞の科学部の機能という視点で振り返ると、科学としては一番おもしろい、再生・発生についてまともな解説がなかった。再生現象については、世界中でいま一番研究費が投入されており、そのぶん競争が激しく、きわどい実験でないと成果として認められない状況になっています。細胞の反応は、DNAやRNA、たんぱく質レベルまですべて網にかけて違いをチェックし、細胞の分化段階ごとに大量の資金を投入して比較しないと、科学的な論証と言えないレベルにきてしまっている。

 だけど、問題としては発生学的に非常におもしろい話を扱っているわけで、そのあたりをちゃんと評論すべきです。たとえば、第1論文の書き出しがウォディントンのランドスケープから始まっている。いまどき、論文の冒頭から半世紀前の概念に言及するのはたいへん珍しい。この斬新さを受けて大新聞の科学部がなぜ解説をしなかったのか。論評がまったくなかった。これは深刻に考えるべきです。

 一方で、小保方問題の外形的な不正については、日本の大学院教育の欠陥が極端な形で露呈されたのであり、以後、改めるべきだし、実際がらっと変わると思います。何度も言いますが、僕は今回のことにまったく悲観していない。先進国のアカデミズムが一度はくぐらないといけないステップだと思います。

 警戒すべきは、手続きだけが異様に厳しくなって官僚の管理が進むことです。今のままでは、日本の研究者社会が犠牲者を出しただけで、研究がやりにくくなることになりかねない。そんな研究の体制に国民の血税をつぎ込むべきではない。私はそう心配します。だけど基本的には私は楽観視しています。

 尾関 科学ジャーナリズムがそういう批評性をもってないということは、私の近著(『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』岩波現代全書)でもそのことを書いたのですが、科学者の間でもかつては、やはりそういう思想に立ち返って科学を論ずるみたいなことがあった。物理学者の武谷三男さんもいたし、生物学者の柴谷篤弘さんもいた。そういう人たちが今は少ししかいないんじゃないですか。

 米本 楽観視していると言ったそばから逆のことを言うようですが、現状は全く逆です。なぜかすごみのある科学批評をする人が全然いなくなってしまった。

 今年5月に亡くなった科学史家の中山茂さんなど一見地味ですが、一歩引いた視点で科学を批判する研究者でした。その意味では、科学批判という重要な役回りを、

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