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科学者という人生のススメ

須藤靖 東京大学教授(宇宙物理学)

 東日本大震災、研究不正問題、STAP細胞騒動など、最近、科学者が社会の厳しい目にさらされるようになっている。これはあくまで一部の科学者の問題だと私は信じているものの、残念ながらそれが科学者をとりまく環境の変化に起因する構造的なもので可能性も否定できない。また行き過ぎた科学者不信が浸透する結果、次世代を担ってくれるはずの優れた人材が科学者離れをおこしてしまうならば、大きな社会的損失以外の何物でもない。実際、政治家はいうまでもなく、過度のバッシングの結果、今や官僚までもが優秀な人材から敬遠され始めている。このような風潮を当然とみなすような流れを定着させてはなるまい。

 かつての典型的科学者像は、協調性がなく社会になじまないまま霞を食って生きている変わり者という偏見と、凡人にはわからない難しい研究に没頭している純粋な人種という尊敬との奇妙な共存から成り立っていた。しかし、科学という営みの巨大化に伴い、現在の科学者は、そのような牧歌的ステレオタイプのままでいることは許されない。例えば、定期的に回ってくる研究業績調査の類いには、テレビや新聞・マスコミでとりあげられた研究成果、今までに獲得した研究費・特許、社会的貢献などを記入する欄まである。また異なる分野の研究者の評価をする際に、肝心の研究内容の説明がないまま、あの人はNatureに何本、Scienceに何本論文を発表している、あるいは、大型研究費の代表となって何十億円のプロジェクトを総括している、といった事実の紹介だけで終えてしまうこともある。

 これらはいわゆる説明責任、研究成果の社会への還元、といった合い言葉のもとに、科学者を一元化し並べて数値によってわかりやすく評価しようとする動きにほかならない。その背後には、大多数の科学者は怠けている、したがってお尻をたたいて競争させてもっと研究させるべきだ、そうしないやつは淘汰されて当然である、という3段論法が控えているのだろう。

 実際、このような風潮を批判すると、それはお前が怠けたいからだとか、優秀な研究者が高給をもらうことをやっかむ負け犬の遠吠えだ、といった意見が科学者側から出されることも多く、違和感を持ちながらも何も言わないでいる科学者も多い。つまり、この動きを科学者自身が容認してしまっていることにも大きな問題がある。いや、それこそがこの問題の本質である。

 だが、本来、科学とはお尻をたたいて競争させるようなものではない。その本来の姿を若い人たちに伝えるために、この小論を書き進めようと思う。

 まずは

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