2014年09月12日
偽装、改ざん、水増しなどが横行しているが、それは偶然ではない。掘り下げれば 日本型「不祥事の構造」が透かし見える。競争やトップダウンのプレッシャーに対して過剰適応し、「局所解」に陥りやすい日本人の心性がある。おおよそそういうことを前稿で主張した。
前稿で見たように、ビジネスや安全規制などさまざまな領域で事例に事欠かない。これを教育・科学の領域に広げると、いっそう醜悪なケースに遭遇する。以下。
大学合格実績の偽装問題というのが、一時期メディアを賑わせた(2007年77〜8月、各紙)。 一部の高校が少数の優秀な生徒に多数の有名大学を受験させ、合格実績を水増しした問題だ。発端は大阪府、兵庫の複数の受験校だが、予備校はもとより、似たようなことをしていた高校が他所でも判明、全国に波及した。
極端な例ではひとりの優秀な生徒が、たとえば70以上の大学に合格した(つまり70人以上の合格として勘定された)ケースさえあったらしい。それを学校の実績として、入学案内などで大々的に採り上げたわけだ。
本人ではなく学校が「学校にとって都合の良い大学・学部」を選んで、出願していた。これが問題点の第一だった。第二に、受験・合格の報奨金として学校が金銭を生徒側に支払い、さらに悪いことにはそれを隠していた。
「別段珍しいことではない」「今に始まったことではない」「皆やっていること」「今さら目くじら立てて騒ぎ立てなくても」。(一部のコメンテーターも含めて)大方はこういう反応だったかも知れない。だがそうした反応自体、「局所解を求める」心性が、現代社会の地下茎として深く蔓延(まんえん)していることを示す。
よく見ると、これはそのまま科学論文のデータ捏造(ねつぞう)にも当てはまる。
最近では理研小保方問題と、東大分子細胞生物学研究所(加藤茂明元教授)の論文大量不正とが、2大スキャンダルだった。そのいずれの場合にもトップダウンの「成果目標」が、証拠なしにいつの間にか「既成事実(=証拠となるデータ)」にすり替わっていた。つまりはじめに成果ありき、そのプレッシャーの中で後はデータで辻褄合わせ、となった側面が大きい。成果主義のビジネスモデルが跋扈し出したとも言える。
小保方問題で(中間)調査報告が指摘した不正の背景も、この見方を裏付ける。つまり、ネイチャーなどの国際トップの学術誌への論文掲載を過度に重視し、ストーリーに合った実験結果を求めたことだ。一方東大の加藤教授は、教員や学生に強圧的な態度で、(目標に合致するデータを出すように)不適切な指導を日常的にしていたという(本欄浅井文和氏論考「東大の大量論文不正 解明すべき連鎖の構図」)。
もうひとつ、高血圧の治療薬「ディオパン」問題も想起する。利益相反する製薬会社(ノバルティスファーマ社)社員と複数大学が関わって、 データを操作した。この事件もよく似た構造を持っている。「はじめに薬効ありき」が背景となって、データ捏造という局所解に至った。
これらいずれの場合にも、成果目標とプレッシャーのかけ方が「原因」だと主張する気はない。それぞれに特殊な事情があり、一筋縄では行かない。それでもなお、問題を生じさせる共通の「背景」ないしは「環境条件」を醸成した、とは言えるのではないか。
業界では「皆やっていて」(おおっぴらにはできないが)内輪では暗に認められている。しかし世間の眼で見ればまったく通用しない論理に陥っている。つまりあくまでも「ムラの論理」で考えていて、グローバルな市民としての感覚を持てない。それがすなわち「局所解だが、グローバル解ではない」ということだ。「局所解」の意味は、社会集団として「局所」であるだけでなく、時間的にも一時的な解で済ます=長い目で見れば損をすることを意味する。
佐村河内問題をはじめとする代作や、TVドキュメンタリー番組の「やらせ」問題にも、共通の潜在心理が認められる(本欄拙稿「 続・佐村河内事件は何を提起しているか~人々は何に金を払ったのか?」)。今や現代日本の隅々にまでこういう「局所解を求める」心性が浸透しているのではないか。
今のままだと、自由競争原理の導入もトップダウンの改革も、特に日本ではうまく行かないのではないか。そういう疑いを筆者は持っている。その理由は繰り返し述べた通り、局所解に陥りやすい視野狭窄(きょうさく)が国民性としてあり、トップダウンの改革や目標設定に対する、下からの過剰反応が生じやすいからだ。
一言付け足しておくと、今「特に日本では」と書いたのは、比較文化的に見て日本に特有の心性と思われるからだ。
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