2014年11月24日
[1][2]の記事で、「社会の常識」がどう形作られるかを知るために、インフルエンザワクチンの集団接種が始まった1962年から最近までの報道の変遷を見てきた。大きな流れをとらえれば、待望の時代→副作用の告発期→敵視と必要論の対立→無効論および無用論の台頭→ワクチン離れ→再評価の時代、となる。新聞は社会の動きを追いかける。報道の流れは社会の動きの結果であると同時に、新聞報道が社会を動かした面もあるだろう。両者はくんずほぐれつしつつ、ともに変化してきた。
ただ、社会は多様だ。いつの時代も、さまざまな見方がある。今だってすべての人がインフルエンザワクチンを再評価しているわけではない。
例えば、予防接種慎重派の小児科医として知られる毛利子来さんは、2010年6月24日付け夕刊のインタビュー記事「人生の贈りもの」で、以下のように語っている。
――市民団体「ワクチントーク全国」代表を務めるなど、予防接種への慎重論を唱えていらっしゃいます
薬はなるべく使いたくない。薬よりも、好きなことするほうがよほど体にいいと思うからです。大学時代、見学に行った結核療養所の医者曰(いわ)く、「いちばん治りがいいのは看護婦と仲良くなった患者。夜な夜な病室でこっそりマージャンするのも治る。無理して安静に寝ているより元気が出る」。
予防注射で言うと、日本脳炎のワクチンを自分で打ったら、わーっと頭が鳴り出して半日寝込んだ、という経験もあって、これは怖いなと思った。インフルエンザワクチンも効かないな、というのが実感ですね。
失礼ながら実体験と実感だけで語られても普遍性がないと思う。
過去に蓄えた知識をもとに語る識者は、毛利さんに限らず少なからずいる。だが、古い知識のままだからといって、その意見を新聞は載せるべきではないのだろうか。そういう意見はないものとすべきなのだろうか。いや、それでは傲慢とのそしりを免れないだろう。
世の中のありようをゆがみなく伝えるという使命と、最良の科学的知識を伝えるという使命は、ときにぶつかる。これはワクチン報道に限らず、いつも直面するジレンマだ。
最近の記事の例を最後に紹介する。2014年5月28日の
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