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実験でも観察でも算数でもない理科がある

尾関章 科学ジャーナリスト

 理科教育というと、だれもが思い浮かべるのが実験や観察だ。理科に強くなるには算数が得意でなければならないというのも常識になっている。それはそれでもっともなのだが、私はここで、もう少し違う理科教育の必要を訴えたい。

 実験をしなくてもいい。観察をしなくてもいい。計算が苦手でもいい。ただ、世の中には科学者という人がいて、その人たちが何を考えてきたのか、何を考えているのかということを、ざっくりと知っておく。そんな理科教育があっていい。いや、なくてはならない。なぜなら、いまや理科は理系だけのものでないからだ。

 そんなことを考えるようになったのは、2011年3月11日の東京電力福島第一原発事故が起こってまもなくのことだった。私のいた新聞社の科学医療部には、社内の別部門の記者たちがさまざまな疑問をもち込んできた。そのなかに「事故炉には、いったいいつまで水を流しつづけるのか」という問いがあった。庭のたき火でも、火事の現場でも、十分に水をかければ確実に火は消える。原子炉がそうならないのはどうしてか、というのである。

 「いや、あれは、ふつうに燃えているんじゃなくてですねえ……」。炉内には放射性核種がたっぷり残っていて、それが原子核崩壊を起こして熱を出している、ということを同僚は必死に説明する。それでも質問者は納得できない様子で、なおも食い下がる。そんなやりとりをダンボ耳で聞きながら、私は「無理もないな」と思った。新聞はずっと、原子炉に入れる濃縮ウランのかたまりを「核〈燃〉料」と書いてきたではないか。ふつうの人は、燃えるものに水をかければ火が消えると思うのではないか。

 このエピソードからわかるのは、ふつうの人の多くは、原子力の核反応が燃焼という化学反応とはまったく異質であることにほとんど無関心だった、ということである。ここで私は「ふつうの人」という言葉を、科学者ではない人、技術者ではない人というような意味で使っている。世の中を饅頭にたとえれば、そのあんこ、すなわちバルク部分を占める人々だ。世間の大勢は、原子力ニアリーイコール火力と考えていたからこそ、原子炉で重大事故が起これば敷地内に汚染水のタンクがとめどなく増設されることになる、などとは想像できなかったのである。 ・・・ログインして読む
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筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。1週1冊のブログ「本読みby chance」を開設中。

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