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「コペンハーゲンの亡霊」は消えた? COP20

意外に進んだ「パリ合意」への事務的な仕事 温暖化防止リマ会議報告

石井徹 朝日新聞編集委員(環境、エネルギー)

 最後はあっけない幕切れだった。南米ペルーの首都リマで12月1日から開かれていたCOP20は、決定案をめぐっていつものように先進国と途上国の攻防が続き、12日(金)に終わるはずの会議が、14日(日)未明に突入していた。各国の代表団やNGO、メディアなど参加者の多くは、2日目の長い夜を覚悟していた。会議が再開されて約1分。「反対はありませんね」。議長をつとめるプルガル・ビダル・ペルー環境相が打ち鳴らすハンマーの音が、会場に響いた。参加者はあっけに取られ、しばらくして拍手がわき起こった。記念撮影を始める人もいた。

COP20COP20の決定文書が採択された瞬間。参加者は、拍手したり、写真を撮ったりしていた=12月14日未明、ペルー・リマ

 リマ会議での決定によって、すべての国が参加する温暖化防止の新たな国際枠組み「パリ合意」は、何とか実現しそうな先行きが見えてきた。1年後のパリ会議までの形式的な道筋が、ある程度、整ったからだ。ただ、温暖化防止の効果については、大きな成果を期待できそうにない。ここで言う成果とは、気候変動枠組み条約の目的である「人類の活動によって気候システムに危険な影響がもたらされない水準で、大気中の温室効果ガス濃度の安定化を達成する」ということであり、具体的には「産業革命(18世紀半ば)以降の世界の平均気温の上昇を、2度以内にとどめる」ということだ。

 大きな決定の1年前のCOPは、記憶にとどまることが少ない。だが、そこでの交渉の進展は、1年後の結果を大きく左右する。

 すべての主要排出国が参加する枠組みを最初に目指したのは、2009年にデンマークのコペンハーゲンで開かれたCOP15だった。先進国の一部にだけ削減義務がある京都議定書(08~12年)が切れた後の、新たな国際枠組みをつくるのが目的だった。1997年の京都会議(COP3)の時とは、世界の状況は変わっていた。温室効果ガスの最大の排出国は米国から中国へと変わり、全体の割合も途上国の方が先進国を上回るようになったからだ。京都議定書が切れる前に何とかしなければ、という機運が世界的に盛り上がったのである。

 その1年前のCOP14は、ポーランドのポズナニで開かれた。この会議もたまたま取材していたが、何が決まったのか、ほとんど記憶がない。改めて今回、COP14の決定文書を見て驚いた。ほとんど何も決まっていないのだ。合意の中身はともかく、COP15までにやるべきことは、手続き的にも山ほどあったはずだ。それさえもほとんど手つかず状態のまま、COP15に丸投げした。

 例えば、COPで新しい議定書をつくるためには、少なくとも6カ月前までに、事務局が議定書案を締約国に示すというルールがある。今回はCOP決定の付属書という形で、「交渉文書案の要素」が付けられた。緩和(温室効果ガスの削減)、適応(影響の軽減)、資金、技術開発および移転、透明性、能力開発の6要素について、各国の主張を並べたものだ。パリ合意が議定書という形になるかどうかは決まっていないが、この文書を元に、来年2月の作業部会でさらに検討し、とりまとめた原案を、5月末までに各国に提示すれば、議定書をつくることも可能だ。作業部会での検討は、すでにある文書を削り込む作業になる。

 COP14の決定では、この時点でまだ交渉文書案に入れる要素などを募集していた。原案は、翌年6月の作業部会で示すことになった。新たな議定書をつくることは、すでに不可能になっていたようだ。COP15では、議定書が不可能になり、法的文書も難しくなり、各国首脳が集まって政治合意を目指したが、これも採択に至らなかった。「留意する」という弱い表現で、あいまいな合意に終わったCOP15の運命は、1年前のCOP14ですでに決まっていたと見ることもできる。

 理由はいくつかある。COP14直前の2008年9月、世界はリーマンショックに見舞われ、各国は経済への対応に追われていた。ポスト京都や温暖化対策は、世界の主要課題ではなかった。温暖化対策に熱心な米民主党のオバマ氏が当選したばかりで、会議場には期待感があふれていた。会場には、COP20にも来たケリー国務長官(当時は上院議員)も姿を見せ、「米国はかわる」と演説した。ムードに流されて、何も決まらないまま終わってしまったような印象がある。COP14の決定文書には、「来年は全面的に交渉モードに入ろう」なんてことが書いてある。

 それに比べれば、リマでの収穫は小さくはない。

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