政治問題化した「歴史」の困難さを丹念に切り分けよ
2015年01月09日
朝日新聞の報道に関する第三者委員会報告をめぐって、「切り分けの難しい問題」だらけだが、「角度を付けること自体が悪かったのではない」と前稿で書いた。「むしろ反対意見を実証的に論破することによってこそ、角度をつけよ」とも。
切り分けを誤って欲しくない問題が、他にもある。
第二に筆者が指摘したいのは、朝日の主張した広義の「強制性」に、道理がないわけでもないという点だ。これには多少の背景説明が要る。
1997年3月の特集記事では、(済州島などから)韓国人女性たちを「強制連行した」とする吉田証言は「真偽を確認できない」と表現、取り消し・謝罪をしなかった。また強制連行という狭い意味の「強制」でなくても、「だまされて応募したり、慰安所にとどまることを物理的、心理的に強いられていたりした場合も強制があったといえる」「慰安婦の募集や移送、管理などを通して、全体として強制と呼ぶべき実態があったのは明らかである」などとした。
この「広義の強制性」理論はたいへん評判が悪く、その後他のメディアから袋だたきにされ、今回の報告書でも「論点のすりかえ」と厳しく批判された。それをあえて擁護するのか、と言われそうだが、筆者がここで強調したいのは、歴史的文脈とタイミングの問題だ。
「広義の強制力」というのは、通らない理屈ではない。純粋に事実として見るなら、強制連行という「狭い意味の強制」は(おそらく稀(まれ)な例外を除き)なかった。しかし「(戦争の他の多くの犠牲者と同じく)選択の限定や心理的圧力など、広義の強制力の下にあった」のも、ある程度事実ではないのか。
ただし、
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