2015年04月29日
科学とメディアの関係は2011年の3・11原発事故で揺らぎ、さらに2014年のSTAP騒動で混迷の度を深めた。その結果、科学ジャーナリズムのあり方だけでなく、科学者の情報発信がどうあるべきかについても、いま問い直されている。科学者と科学コミュニケーションの専門家、メディア人が徹底討論する。
《発言者》
津田一郎(複雑系科学)
中垣俊之(物理エソロジー)
石村源生(科学技術コミュニケーション)
鳥嶋七実(編集者、新書編集部在籍)
尾関章(科学ジャーナリスト)
☆津田、中垣は北海道大学電子科学研究所教授、尾関は同客員教授、石村は北海道大学Co STEP准教授(敬称略)。
☆2014年12月に北大構内で討論、今年に入って、採録原稿をもとに発言者が加筆修正した。
☆写真はいずれも、大津珠子・北海道大学Co STEP特任准教授が討論冒頭に撮影した。
尾関 では、話題をかえて、アウトリーチについて。これは石村さんに振っていいでしょう。
事業仕分けのときに再認識された問題、つまり、研究予算のことが研究者以外の方々に理解されていないという問題があります。そのような問題を緩和するために、「研究者はアウトリーチをしなくてはならない」というような議論がせり上がってきました。
しかし、義務論的にアウトリーチが語られるというのは非常に不幸なことなのではないでしょうか。研究者の側は、もちろん全員ではありませんが、少なからぬ割合の方々が本音の部分では積極的なモチベーションをもっていないにもかかわらず、一定の予算をアウトリーチ活動に使うことを義務づけられているのでしかたなくその予算を使ってなにかやろう、ということになっています。それはルールだから義務としてやっているということです。我々も研究者の方々からそのような相談をよく受けます。
しかし、義務としておこなわれている活動が、本当に市民にとって価値のある体験に結びついているのでしょうか。ただただ、何回アウトリーチを実施して参加者が何人だった、というような「アウトプット」だけが評価され、それが実質的にどのような価値を生み出したか、生み出しうるかという「アウトカム」については真剣に考えられてこなかったのではないでしょうか。もちろん、アウトカムの評価は非常に難しいのですが。いずれにしてもこの状況が続くと、もしかしたら研究者も納税者も、だれも幸せにしないシステムになってしまうのではないかということを危惧しています。
アウトリーチとセットになって使われることが多い「説明責任」という言葉についても、accountabilityという元の言葉をそのように翻訳していいのかという議論があります。
自分がどういう研究をおこなっているのかということをただ伝えればそれでaccountabilityを果たすことになるのか。研究プロジェクトが終わりかけたタイミングにつじつま合わせのためになにか情報を発信する、ということではなく、もっと時間軸上の視野を広げて、研究の初期段階、あるいはプロポーザルの段階から、社会が広い意味で「納得する」研究のあり方を考えていかなければならないのではないか。さらに今度はプロジェクトの終了後、研究成果が社会に対してクリティカルな影響を与えた、あるいは与えるかもしれない、という局面において、「もう『説明』は済んだからなにもしなくてよい」ということではなく、研究者が果たしうる役割があるのではないか、ということを考えます。
しかし一方で、当然ながらそういった研究のすべてのフェーズにおいて逐一社会とコミュニケーションをおこなうということは現実的ではないし、場合によっては研究者の創造性を奪ってしまうことにもなりかねません。研究には、あえて社会とのコミュニケーションをおこなわない「静かな時間」も必要だと、個人的には考えています。
この一見相反する二つの側面をどのように両立させていくかということはもちろん非常に難しいのですが、取り組むに値する課題だと思います。これはもちろん他人事ではなく、我々の分野で本腰を入れて考え直さなければならないことです。だれも幸せにしないアウトリーチというのはもうなくしていかなくてはならない、そういう責任のようなものを感じています。
石村 そうですね。たとえば、代表的なアウトリーチ活動である「サイエンスカフェ」の場合をお話ししましょう。サイエンスカフェとは、研究者をゲストに、大学の外、つまり街なかのスペースで学術講演会などとは異なるカジュアルな雰囲気をつくり、参加者のみなさんと双方向のコミュニケーションをおこなう実践のことです。
研究者はみなさんは、ゲストを引き受けてくれないかと依頼すると多くの場合、自分は忙しくてそんなことに割ける時間はあまりないとか、自分の研究テーマは一般の人にはとうてい興味をもってもらえないだろうとか、そういったことをおっしゃるのですが、そこで引き下がるわけにはいきません。踏みとどまって粘り強くやりとりをして、たとえば話題提供をしてもらうためにつくってもらったパワーポイントの構成を一緒になって一からつくり変えていきます。だいたいみなさん学生向けの講義資料をもってきたり、場合によっては学会発表のときのスライドがそのまま混ざっていたり、さらにそれが運悪く国際学会だったりすると英語のスライドだったりするんですね。
それに対して私たちは、サイエンスカフェというのは、普通の学会発表や講義はもちろん、市民向けの講演ともまったく違うということを伝えます。話す内容は徹底的に絞り込んで、「テイクホームメッセージ」と言うのですが、もっとも伝えたい、イベント終了後これだけは参加者に家に持ち帰ってもらいたい部分は何か、ということを議論の中であぶり出し、そこに焦点を当てていきます。
そして、会場の参加者に質問や意見を言ってもらう時間を、むしろ話題提供の時間より長く取ります。ほかの参加者の前で質問するのが苦手だったり、ついつい話が長くなってしまったり、自分の昔話になってしまったりする方もいらっしゃるので、参加者にはあらかじめ「コミュニケーションカード」と呼ばれる用紙を配布し、そこに質問や意見を書いてスタッフに渡してもらうなどの工夫をしています。「ファシリテータ-」と呼ばれる、参加者とゲストの橋渡しをする役割のスタッフがいて、それらのコミュニケーションカードをグルーピングして順番を決め、流れをつくってゲストに答えてもらいます。 こういったかたちでデザインされた場では、参加者の反応も普通の講演会とはまったく違います。驚くほどたくさんの質問や意見が出されます
こういった体験をするとほとんどの研究者は「今まで学会でも市民向け講演会でもこれほど多くの質問や反応をもらったことがない」などといった非常にポジティブな感想を伝えてくれます。研究者のスライドを、それこそ相手が怒り出しかねないぎりぎりのところまで大胆にこちらでつくり直して提案し、なんどもキャッチボールを重ねた成果が、サイエンスカフェのスライドになるわけですが、ゲストの研究者はそのスライドを最終的には気に入ってくれて、サイエンスカフェが終わった後でもいろいろな機会で使ってくれています。研究者に直接そのような体験をしてもらうと、かなりの程度われわれの仕事を理解してもらえると思っています。義務とか規範で縛るよりもまず一度体験してもらって、「楽しい」「手応えがある」「実りがある」と感じてもらえたら素晴らしい。ダメなら別の方法を考える。お互いにハッピーになれる方法が良い。そんな関係性を模索しているわけです。
『ナノ・ハイプ狂騒』(上下巻、D・M・ベルーベ著、五島綾子監訳、熊井ひろ美訳、みすず書房)という本によると、米国ではナノテク研究にもELSIのようなものが制度化されていて、社会的な影響を評価するために社会学者などを仲間に入れている。自分たちの研究予算で専門外の人を入れて、その人たちにナノテクが社会に与える影響について研究をさせている。そのための費用として予算の何%かをつけなければならない。日本の今のアウトリーチはちょっと違うんじゃないかと感じるわけです。
石村 お答えすべき点がいくつかあります。アウトリーチという概念は、大学あるいは研究室の外に出て、ふだん接しているアカデミックなコミュニティーの「外」で、様々な人々と研究テーマや専門分野に関するコミュニケーションをおこなうこと、と考えることができます。そうすると、これは非常に広い定義ですから、そのなかで自分の研究をプロモートするような活動をおこなってもよいし、逆に自分の研究自体や、その成果によってもたらされる可能性のある社会的影響、研究の法的倫理的問題といったものを多様なステークホルダーにチェックしてもらう機会として利用してもよいわけです。言葉の本来の意味に立脚すると、後者を含むと考えられます。
もちろん第三者からは、そうはいってもアウトリーチではやはりほとんどの場合、研究者が自分の研究のPRをおこなっているのではないか、と指摘されることが多いです。確かにそういった面はあります。ただ、それはそれで必要な活動だと考えています。裾野を広げないと山は高くならないですよね。関心をもつ層が厚みを増せば、そのなかの一部の人々は自ずと建設的な批判をする役割を果たすでしょう。優れた批判者がそのなかで一定の割合で生まれます。それが社会全体のチェック機能となる。そのポジティブな効果を期待できると思います。
もうひとつ、ELSIに関してお話しさせて下さい。私たち北海道大学Co STEPの元同僚に、環境社会学、科学技術社会論を専門とする三上直之さんという方がいるのですが、彼が中心メンバーの一人となって、ナノテクを応用した食品が将来普及したときにどのようなELSI面の問題が起こりうるのかということを先取りして、専門家だけではなくさまざまなステークホルダー、市民の方々に集まっていただいて、サイエンスカフェとグループインタビューとコンセンサス会議的なものを組み合わせたプロジェクトを実施しました。
このように、特定の科学技術が具体的な社会問題を起こしてから対策を議論するのではなく、そういった問題が起こる前に可能性を先取りして、市民参加型の科学技術評価をおこなう活動のことを、「アップストリーム・エンゲージメント」と呼びます。直訳すると「上流における関与」ということになります。原発問題や遺伝子組み換え作物の問題などは、すでに実用化が進んだ段階で問題が浮かび上がってきたので、社会的対立が大規模かつ複雑で深刻なものになっていて、ある程度の議論の場、コミュニケーションの機会をつくってもなかなか解決、合意に至らないわけです。であるならば、もっと早めの、埋め難い溝ができていない段階、建設的なコミュニケーションの可能性が十分ある段階で、その問題に取り組む必要があるのではないか、というのがコンセプトです。その代表例のひとつとして「ナノテクノロジー」が選ばれたわけです。
研究者にとっては、このようなプロジェクトにコミットしなければならないというのは、一見面倒くさいことなんですよね。当然だと思います。しかし、社会的に深刻な問題を引き起こした科学技術、そしてその進展に寄与した研究者は、その是非はともかく事実として世間の厳しい批判にさらされる可能性があります。それならばむしろ、そういった問題がまだ先鋭化していない段階で、社会的影響を懸念する方々、他分野の多様な専門家、さまざまなステークホルダーにも参加していただいて研究の方向性を議論していったほうがよいのではないでしょうか。どういうルールで研究を進めるか、どういう影響がありうるか、どの範囲の責任をだれがとるか。こういったことをさまざまなステークホルダーと議論して、一緒に決めながら研究を進めていくのです。もちろん、未来に起こりうる問題について一回の議論で全てを見通せるわけではありません。次のステップまで研究や応用、社会実装が進んだらまたそのつど議論する、これを繰り返すということです。そのほうが一見回りくどく見えても、研究者にとってもよりよいのではないか、と。近年、科学技術社会論や科学技術コミュニケーションの分野において、このアップストリーム・エンゲージメントという考え方がクローズアップされているゆえんです。研究が社会にきちんと受け入れられるためにこそELSIの考え方を取り入れたほうがよい、そういう動きが出てきているのです。
尾関 三上さんたちのプロジェクトでは、研究者も主体的に参加していたんですか。
石村 ナノテクノロジーの研究者もプロジェクトに参加しています。いろんな考えがあるでしょうが、先ほども言いました通り、研究者も初期段階でコミットしておいたほうが将来的にむしろ研究がしやすくなるという考え方です。社会の合意と歩みをそろえながら研究を進めることができるので、ふたを開けてみたら予想もしなかったような大きな軋轢が生じて対応を迫られる、といったことを防ぐことができる。少なくとも、そういう仮定のもとに進められているということです。
石村 そうですね、今のご指摘は非常に重要だと思います。個人が独力でそういった倫理観を獲得するためには、非常に強い決意、強靭な精神力が必要です。自分一人でそういった倫理観を構築することは難しいでしょう。こういう問題をあまり単純化して論じるのよくないと思いますが、議論の補助線としてあえて言いますと、たとえばキリスト教文化圏では 最終的には「神が見ている」というのが倫理観の基準になっていると考えられるでしょう。キリスト教徒でない大半の日本人がそういった倫理観の基準をどういうかたちで獲得し、構築し、維持できるのかといえば、すぐには答えは思いつきません。
津田 おてんとさんが見てるっていう言い方が昔からありますね。だから恥ずかしいことは絶対できない。
石村 「おてんとさん」というのは、言い換えれば「超越者」ですよね。人間ではなく、そういう超越的存在に照らし合わせて自分が規範的な言動をしているかどうかということでしょう。そういう超越者を、自らが存在する世界という枠の中にもっているかどうかということだと思うんですよね。それをもちうる人間もいるかもしれませんが、そういう枠組みを、たとえばキリスト教文化圏ほどもっていないであろう日本において、それを個人の努力のみにゆだねるのはなかなか難しいのではないでしょうか。やはりインセンティブとサンクションが適切に働くなんらかのしくみをつくって、その環境のなかで少しずつ倫理観を醸成していくしかないのではないでしょうか。
STAP細胞の事件をきっかけに、研究倫理教育をもっと徹底しておこなうべきだ、それを怠ってきたからこのような研究不正が起きたのだ、という主張が目立つようになってきました。しかし私は、必ずしもそのようなシンプルな問題ではないと考えています。倫理教育を30時間やろうと300時間やろうと、それで一人の人間が「倫理観」を獲得するのかというと、残念ながらその効果には懐疑的です。自動車の運転免許の講習のように「規則を学ぶ」ということはもちろんできると思いますが、それを超えた超越的な倫理観を獲得できるかというと相当難しいのではないでしょうか。だったらどうすればいいのか、という代替案を今すぐ出せないのは心苦しいのですが。それは、ある意味、超越者ですよね。人間じゃなくてそういう超越的存在に照らし合わせて自分が恥ずかしくない言動をしているかどうかっていう。そういうものを世界っていう枠の中にもっているかどうかっていうことだと思うんですよね。それをもちうる人もいるかもしれないけど、そういう枠組みもキリスト教文化圏ほどもっていない日本において、それを個人の努力にゆだねるのはなかなか難しくて、やはりなんらかのしくみをつくって、そこで少しずつそういうものをつくっていくしかないんじゃないかと。
尾関 科学者が原子核物理をつくった。そしたら原爆ができちゃった。その後一生懸命反核運動やるわけですよね。気づいたときはすでに遅かりし例として核があった。次にほぼ同着っていうのがあって、これがDNAなんですよね。DNAの組み換えの第1例は1973年なんですけど、それとほぼ時を同じくして75年にアシロマ会議というのがあった。米カリフォルニア州のアシロマという小さな町にDNA研究をやっている人たちが集まって、遺伝子組み換え実験の安全性を話し合ったわけですよ。そして、同着よりもっと先に、早めに、というのが、ナノテクなわけですよね。先ほど石村さんが言われたように、個人の倫理というものを社会化、組織化してやっていくというある種の進化があるのかなと思いますね、ELSI的な考え方っていうのは。
石村 そうですね、そこはもうおっしゃる通りなのですが、私が2点ほど懸念していることがあります。
一つには、三上さんたちのプロジェクトである程度示唆されたことなのですが、やはり社会問題化していない、対立が先鋭化していない問題についてステークホルダーが議論するのはなかなか難しい面がある、ということです。ナノテクが将来にどういう影響を及ぼすのかとか、生活に何をもたらしてどんな問題を引き起こすのかとか、どんなリスクがあるのかとか、そういった可能性については専門家からいろいろとレクチャーを受けて学ぶことができるわけですが、それに関して主観的に自分の意見を表明することは難しい。まだ可能性の一部でしかないものを想像してそれに対する自分の意見を構成するということは相当難しい、認知的負荷の大きい知的営為だという課題が浮上してきたと考えられます。
ここがまさにジレンマなのですが、「アップストリーム」になればなるほど対立は深刻にはならないけれども、その分リアリティーが薄れてしまい、自分の意見をもちにくいのでしょう。これは大げさに言えば、人間の想像力のある種の限界が試されているということなのではないでしょうか。
もう一つは、
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