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建築は建築家だけのものではない

コンペに「見る人」がいない―新国立競技場に「3・11後」の心情が映されない理由

尾関章 科学ジャーナリスト

新国立競技場のイメージ図(実施設計段階、2015年7月)=JSC提供拡大新国立競技場のイメージ図(実施設計段階、2015年7月)=JSC提供
 新国立競技場の建設計画がボコボコに批判されている。総工費が約2500億円となり、1年前の見積もりよりも900億円ほど膨らんだことが世間の反発を買ったのだ。当然の反応だと思う。

 私は2年前、2020年の東京五輪開催が決まったとき、そのあまりのお祭り騒ぎに疑問を投げかける論考を当欄に寄せた。題して「ニュースアナ五輪慶祝笑顔に脱原発を思う」。3・11の福島第一原発事故から日が浅く、エネルギー需給の面で大都市集中型の社会デザインが見直されようとしているとき、それと逆方向のベクトルをもつ大事業の着手を喜んでよいかという問題意識があった。「もし脱原発を言いつつ2020年の東京五輪を受け入れるなら、それが『集中』を促さないような工夫を凝らさなくてはならない」「とてもニュースアナたちのように笑っている場合ではない」と結論づけたのである。

 この立場で言えば、東京のど真ん中に巨費を投じて造る競技場は「集中」の象徴にほかならない。そのことが、今回の工費膨張ではっきりした。こんなことなら「お・も・て・な・し」のひと言に酔いしれるのではなかった、と後悔している人も多いだろう。

 私はここで、この途方もなく時代感覚とずれた構想を前にして、「建築は建築家のものか」と問いかけてみたい。そんな思いに駆られたのは、2012年に結果が発表された「国際デザイン・コンクール」(設計コンペ)の審査委員の顔ぶれを見たからだ。10人のうち6人が建築史家を含む建築の専門家、1人は土木・都市工学系、残る3人は、施主にあたる日本スポーツ振興センター(JSC)理事長と、施設のユーザーとなるサッカー団体や音楽界の代表である。

 建築家のなかには、その生き方も含めてカリスマと言える安藤忠雄委員長がいる。「海の博物館」(三重県鳥羽市)など素晴らしい作品群を生みだしてきた内藤廣さんもいる。だから、建築畑からの人選については文句のつけようがない。ただ、私が納得しがたいと感じるのは、審査委員のなかに競技場を風景として「見る人」がまったく存在しないことである。地元新宿区の区民代表がいない。神宮外苑を都会のオアシスとして訪れる東京都民や首都圏住人の代表もいない。建築は、「使う」だけでなく「見る」ものでもあるという発想がすっぽり抜け落ちている。

有識者会議を終え記者会見するJSC理事長ら。手前は国立競技場の模型拡大有識者会議を終え記者会見するJSC理事長ら。手前は国立競技場の模型
 これは今回、建設計画にゴーサインを出した有識者会議も同様だ。こちらは、建築家は安藤さんだけで、残りの大半はスポーツ関係者や音楽関係者が占める。東京都民の代表として舛添要一知事が加わっているが、おもな関心事はコスト負担にあるようにみえる。

 ここで認めざるを得ないのは、コンペの審査委員が建築家とユーザーによって編成されるのは世の中の常識ということだ。だが私は、建てようとしているものが町のランドマークとなる場合には、「使う人」と並んで「見る人」も委員に含めるべきだと提言したい。建築家が「見る人」を代弁しているという理屈はあるだろうが、そうした専門家任せの論理が成り立たない時代になりつつあると思うからだ。

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筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。週1回の読書ブログ「めぐりあう書物たち」を開設中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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